Parallel World

□きのうのあした 2
1ページ/3ページ



こっちへ来てから、俺は仰向けになって寝ることをやめた。理由は、奥歯の治療痕を人に見られないためだ。……説明のつかない物は、隠すしかない。


京坂地方を中心に、今この国は騒然としている。
攘夷浪士も、それを取り締まる役人も、俺から見ればこの時代の一途さは、信仰すら越えた狂気に近い。

飛び交う斬奸状は、さながらジョーカー。

けしからん奴、意見の違う奴は言うに及ばず。ここでは怪しいというだけで、十分に斬られる理由になる。



だから宴席ではいつも、俺は酒の弱いふりをする。
頑なに飲まない、では角が立つし、酔って余計なことを口にしては命取りだ。誰かを議論で言い負かすことも、未来で得た知識をひけらかすこともない。ただただ酔ったふりをして、悪目立ちしない程度にへらへらと笑っている。
卑屈だろうとみっともなかろうと、問答無用に斬られるよりはマシだ。訳も分からず、こんなところで死にたくはない。







それなのに。
俺は少し、気が緩んでいたのかも知れない。



「出来るだけ効率よく産業を興すなら、やはり、英国を真似るべきなのか。お前ならどうする?……ほら、もっと飲め。」

北村さんの目配せの先で、銚子をもったその人が微笑んだ。長い睫毛の影が二つ並んだほくろの上で揺れて、俺は魔法がかかったみたいにするすると、盃を差し出してしまう。
あと一杯が、どうしても最後の一杯にならない。


「お前も朱鶴の酒なら飲むんだな。」

楽しそうに、そして少し自慢げに、北村さんは笑った。
その隣で寄り添っているのは俺がさっき廊下で見かけた姐さんで、朱鶴という名の北村さんの馴染みだった。この松葉屋のみならず、柳原でも一、二を争う人気の遊女らしい。

こうして向き合っても、朱鶴さんの顔立ちはさゆりとよく似ている。手足はすらりと長くて、それが身のこなしやたたずまいに、落ち着いた品を与えていた。歳は近いけれど、随分と大人っぽい雰囲気だ。



俺の視線に気づいた朱鶴さんが、首を傾げて小さく唇を動かした。それが妙に色っぽくて、慌てた俺は体ごとそっぽを向いて酒を煽った。

喉を落ちていった液体の、味なんか覚えてない。唇にふれた盃は一瞬ひやりと俺の熱を奪うのに、俺は腹も胸も顔も全部熱くて、畳の上を行き場なく視線を泳がせた。



「……紡績から、っていうのはいいと思うんですけど……どうせだったら、もっと上手くやりたいですね。」

北村さんは冷静な話の出来る人だ。俺だってたまには実のある話がしたい。でもそんなのは言い訳だ。



俺は酔って気が大きくなって、そして朱鶴さんの前で、少し格好つけたかったんだ。








※斬奸状
人を斬り殺すにあたり、その理由を書いた文書。


→次ページ


次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ