藍屋秋斉の味わい方


□雨を待つ 前編
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若く、美しい男に求められる喜びと苦悩は、

ある程度歳を重ねた女でなければ、本当にわかるものではない。


いつ、失ってしまうのか。


男に抱かれながら肩越しに見て怯えるは、
いつかくるその日の影。


どんなに濃密な濡れた時を過ごそうとも、
その後の寂寥感が、更なる渇きを呼ぶだけだ。



それを百も承知で。



ましてやそれが、藍屋秋斉ほどの男なら



―――拒める女が、何処にいる?






「輪違屋の新造で、菫(すみれ)はんゆう娘がおるんどす。三味線のお稽古で顔合わせて、知りおうたんやけど。」

藍屋の遣手、お柳が納戸の片付けをしていると、いつの間にか手伝い始めたお菊が口を開いた。

お菊は今藍屋にいる新造の中でも、素直ですれた所のない、可愛らしい娘だ。


「その娘がどないしたんや?」

片付けの手は休めず、お柳は聞き返した。

「それが…うちとこの秋斉はんに、付け文したんやて。ずっとお慕いしとりました。今度二人でお会いしたい、て書いたんやて!」

お菊は興奮気味に息を弾ませている。


「そらぁ、気の毒なことやなぁ。」

「誰がやの?」

お菊が必要以上に声を潜めるそぶりが可愛らしい。


「どっちもや。もし秋斉はんがその娘を気に入ったかて、よその置屋の新造に手ぇ出せんやろ。その…菫はん?ゆう娘が本気なら、気の毒なことや。」

「なら、秋斉はんは…菫はんにはなびかん、ゆうこと?」

大きな目を見開いて、お菊が真剣に聞いているのが分かる。


「十中八九なぁ。」

「そうかぁ、そうやねぇ。」

お菊の口元がほころびかける。


「なんやお菊はん、あんさん朋輩が袖にされるゆうに、嬉しそうやで?」

「実は…内緒にしておくれやす?菫はんからそないな話聞いたら……わてはなんや…悔しいような気ぃになってもうて…。」

「悔しい?」

「秋斉はんを取られたない、ゆうか…」

「妬いたんか?」

お菊はあっと言う間に、耳まで真っ赤に染まった。

「内緒どす!わてのはただの……憧れやさかい。」



「……お菊はん、そんなんで妬いとったら、身ぃがもたんで。」

おおかた片付けの終わった納戸の戸を閉める。

「旦那はんが藍屋に来はった頃、まだ二十歳前やったけんど、その頃は旦那はんが出先から戻る度に、袂に付け文が幾つも入っとったもんや。」

「そないにぎょうさん?」

お菊が再び目を大きくする。

「若い忘八が珍しいよって、方々の姐さんらぁがちょっかい出しよったんやな。中には町絵師に秋斉はんの姿絵を描かせて、襖に貼るもんまでいたそうや。」

「……」

「そないに深刻な顔せんと……なんなら、秋斉はんの着物の袂、全部穴開けといたらどうや?」


いややぁ、とお菊が明るく笑う。
廊下を一緒に歩きながらお菊は、あ、金魚金魚、と呟きながら縁側に出していた金魚鉢を部屋の中に入れた。

あれ、と金魚鉢を見て訝るお柳に、お菊が教えてくれる。

「こないだ一匹死んでもうたよって、旦那はんがまた新しい赤いの買うてきはったんよ。黒の出目が、寂しい思いしとるんやないか、て。」

と、見ている間に黒の出目が、一回りも小さな新入りを突っつき始めた。

これ、新入りいびりはいけん、と二人で金魚鉢を叩いた。
すると夕刻の傾いた陽が揺れる水を通して、ちらちらと複雑な模様を障子に写し出す。


――綺麗やね、中の金魚からはどう見えとるやろか。

――さあ、目ぇ回しとるかも知れんなぁ。



そんなたわいのない話をして二人で笑った。
この娘はお柳によく懐いている。


だからお柳は……少し後ろめたい。


お柳は時折、秋斉の寝所に呼ばれている。





※遣手(やりて)
遊女屋全体の遊女を管理・教育し、客や当主、遊女との間の仲介などをする役目

※忘八(ぼうはち)
遊女屋の当主。
仁・義・礼・智・信・孝・悌・忠 の8つの「徳」を忘れたものとされていた。




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