―――いつか、こんな日が来るかも知れないと思っていた。
いつものように夜明け前、音も無く秋斉の部屋を出る。
二歩進んでふと廊下の先に黒い大きな塊を見つけ、お柳は息を呑んだ。
その塊は立ち上がり、人かたとなってお柳を待ち構えている。
一晩中ここで座っていたのだろう、憔悴した顔の、お菊がそこに立っていた。
二人の女は少し向き合い、やがて連れ立ってその場を離れた。
途中、廊下に置かれた金魚鉢の中で、相変わらず黒の出目が小さな新入りを追い回していた。
逃げ惑う赤い色が、暗がりに浮かんで見えた。
「二人で何してはったん……?」
お柳の部屋で、お菊が抑えた声で呟いた。
「……全部聞いとったんやろ?」
「言い訳もせんの?……二人して、わてと菫はんを笑うとったんか?」
お菊はもう、目も鼻も赤くして、ぽろぽろと涙をこぼしている。
「…そんなんせえへんて…」
他に何を言えばいい?
しゃくりあげるお菊に、なんと言えば届くだろう?
「なんで…なんで、お柳はんが、泣くんや……ずるいで。ええ思い、しはったはずや…。」
言われて初めて気が付いた。
お柳の頬にも、涙が一筋流れていた。
「お柳はんも…辛いん?秋斉はんと通じとっても…それでも辛いんか?」
「そうやな、焦がれて焦がれて、ずっとずっと…しんどい恋や。
…けんど、旦那はんに呼ばれてもうたら、もう、どうにも、出来ひん…。」
水揚げ前のお菊には、男女の機敏はまだわかるまい。
しかし聡いお菊は、お柳の様子から、感じるものがあったのだろう。
黙ってもう、お柳を責めはしなかった。
そして親子ほども歳の離れた二人の女は、同じ男を思って泣いた。
肩を抱き、声を殺し、届かぬ思いを、互いに嘆き、慰めあった。
夜明けと共に、小鳥のさえずりが聞こえる。
皆が起きてくる前に、泣くのをやめて顔を洗い、何食わぬふりで仕事をせねば。
「お菊はん…わてらがこない泣いとるゆうに、秋斉はんはきっと今、いびきかいて寝てはるで。」
目を見合わせて、それから二人で泣き笑いした。
「……さぁ、顔洗い行こか。」
もうそろそろ、潮時かも知れない。
辛い、と自分で口に出して認めてしまったから。
いつか、六条の御息所になってしまう前に。
そしてもう一つ、
急ぐ理由が、お柳にはある。
※六条の御息所
源氏物語の登場人物。
年下の恋人、光の君への妄執忘れ難く、生き霊となって恋敵に仇をなす。
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