「ここを出たいやて?」
珍しく秋斉が大きな声を出した。書き物の手をとめて、こちらを向く。
入梅前に、とお柳は意を決して秋斉の部屋にやって来たのだ。
「勝手なこと、ゆうとるのは、わかっとります。けんど…お暇をいただけんやろか。」
「それで何をしはるつもりや?」
無表情なままの秋斉が、じっとお柳を見ながら問う。
「…芸事教えるくらいは、きっと出来るやろ。」
「そんなんここで毎日しとるやないか。」
秋斉が視線を落とした。
「つまり……わてと切れたい、ゆうことか?」
「……そうとも言うな。」
「なんでや?しつこくするんは性にあわんが、わてらは……上手くやっとったんやないのか?」
秋斉の優しい口調に、くじけそうになる。
早く、次の言葉を言わなければ。
「もぅ、旦那はんを待つんが…しんどいんや。」
「……」
「物分かりのええ女の、ふりするんが、もう…。」
言ってしまえば、もう取り返せない。
やっと吐き出して、目を閉じた。
「つらい思いを――ずっとさせてもうたんやな?すまん……わての、甘え過ぎやった…。」
―――子供の相手はもう疲れた、と言われたならば、強がるな、と言って抱き寄せてやればいい。
だが、お柳ほどの女が恥も外聞もなく、つらいと助けを求めている。
なら俺は……手放してやるしかないのだろう。
大切な女は、どうしてみんな俺から去って行く?―――
大きくかぶりを振ってお柳が答える。
「…旦那はんかて、わかっとる筈や。辛いからこその恋やろ?」
幼くして置屋に売られた女。
やっとの思いで太夫になったのも束の間、火傷を負って、身請け話の流れた女。
人は憐れとのたまうか。
しかしそんな女の半生にも、喜びに心震える、色鮮やかな刻は確かにあったのだ。
「旦那はんとのことは……極上の甘露、やった……。」
「もう、すっかり決めてもうたのやな……」
秋斉がそっと、お柳の両肩に手をのせた。
その透明な瞳に、去り行く美しい女が映る。
「辛い時はいつでも俺を頼れ。泣きたくなったら、この胸に返ってくると約束しろ。」
秋斉はお柳を抱き寄せる。
秋斉の背中が微かに震えていた。この不器用な男は、それくらいしか、自分の気持ちを表せない。
その背中を少し撫でてやってから、お柳は優しい笑顔でこたえた。
「これからこの藍屋に来るおなごら皆に…その言葉をかけるて、約束してくれはるなら……。」
「…お前らしいな。」
お柳の顎に手を添えて、寂しそうに秋斉が微笑んだ。
自分を見つめる長い睫毛に縁取られた瞼に、お柳はそっと口づけた。
それから二人は、初めて明るい陽の差し込む部屋の中で抱き合った。
障子越しの穏やかな陽射し。
誰かの足音。
稽古中の鳴り物。
女達のかすかな話声。
いつもの指、いつもの癖、
いつもの……秋斉の匂い。
今日までのお柳の全てだった、この置屋の物音を耳にしながら、
陽に透けてしまいそうな、秋斉の顔を見ながら、
最後に惚れた男の腕に抱かれるのは、満ち足りたいい気分だった。
「…旦那はんの湯呑み、餞別にもろてもえぇやろか…?」
「なんでそないなもん?」
「…ないしょ、や。」
ほんの遊び心で思いついたのだ。
ここを出ていく前に、秋斉の湯呑みにあの黒い出目の金魚を入れて、持ち出そう。そしてどこか、よさそうな所に放してやろう。
気持ち良く晴れた朝がいい。
古株のあの出目に、硝子越しでない、本物の空と太陽を教えてやるのだ。
雨を待つ暮らしは、もう終わりだ。
手放してしまえば、もう怯えることもない。
空からこぼれる夏の欠片を両手で集め、黄昏れを惜しみ、
ぬかるみを避けて、日なたの道を歩いてみよう、歩けるだろうか。
ふいに不安な気持ちになったけれど、大丈夫、と言い聞かせ、
お柳はそっと、自分の下腹を大切に撫でた。
秋斉は、気付かない。
・・・・・・・完・・・・・・・
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