ある凶王の兄弟の話


□小田原評定
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「また何か悩んでおられるのですか」


その声は乾いていた。
声の主は重成だ。
彼はいつの間にか、家康の座る縁側から望める居間に立っていた。
珍しく、手には刀を持っていない。
しかし、腰に垣間見える緩く斜めにずり落ちた腰紐を見る辺り、銃は所持しているようだ。
その腰紐は羽織の下に隠れたホルスターの物である。
斜めになっているのはホルスターに入った銃の重みによる物だ。
重成は城内でも刀を持ち歩いているが、特にこの銃は肌身離さない。
それもその筈、銃は君主から貰い受けた彼の宝だ。
そう簡単に置く訳も無い。


「このような天気です。縁側に居られては微雨で衣が濡れてしまいますよ」

「・・・あぁ、重成か」

家康は視線を彼に向けると、安堵したように微笑んだ。
重成は家康にとって、本音を包み隠さず話せる数少ない相手だ。
それに重成は己の信じる物以外には目もくれない三成とは違い、考えに共感してくれる面がある。
それは他の家臣とて同じなのだが、生き方も業も、全てが己と異なる対象に話すときは、家臣に語る時とは何かが違う、新鮮な何かがあった。

「丁度お前と話がしたいと思っていたんだ」

そう言いながら、家康はゆっくり立ち上がる。
既に家康の服は霧雨で少し濡れていた。
重成はそれを見るなり、細い双眸をさらに細めた。

「・・・濡れた事さえ気に掛ける暇(いとま)もない何かがあったんですか?随分と呆けられていたようで、貴方らしくもありませんね」

「ワシも人間だ。らしさを忘れて思いに浸る事もあるさ」

家康は重成のいる居間に胡坐を掻いて座した。
そのまま目の前にいる棒立ち状態の相手を見るが、座る家康にとっては、重成を見上げる形になる。

「重成も座ったらどうだ?居間で位、肩の力を抜け」

重成は暫く沈黙していたが、家康に促されたよう、腰を下ろした。

「三成はどうしているんだ?」

「兵の鍛錬をしています」

「重成は行かないのか?」

「他の者に剣術を教えるのが不向きであるが故、よっぽどの事が無い限り謝絶しています」

「そうか」

他愛もない、会話。
何の変哲もない只の言葉交わし。
普通。
そんな簡単な事を忘れていた気がした。

「そういえば、重成がワシの所に来るなんて珍しいな。何か用向きか?」

家康から重成の元へ伺う事はあっても、その逆は滅多にない。
すれ違っても家康が呼び止めない限り、重成は素通りしてしまう。

「そうですね・・・用向きと言えば、用向きですが、否と言えば違うのでしょう」

重成の、獲物を見るような鋭い視線が家康を貫く。

「先程、私は小田原へ向かう兵の列から外れ、大阪城に帰還しました。徳川の兵の様子がなにやら不穏でありましたので、家康様に声を御掛けした次第です」

家康の背に脂汗が滲んだ。
まさか、もう感づかれるとはな。
小姓とは言え、視野や目から得る情報や洞察力に長けた重成だ。
時々、お前には小姓より忍の方が良かったんじゃないかと、感じてしまう程である。
そう簡単に隠し事が通じるとも思えない。
しかし、上辺は悟られてしまったものの、内情までは流石の重成でも分からないようだ。
そこまで知っていればもはや間者の域だ。

「・・・フッ・・ハハハ・・・」

家康の笑い声は、何処までも乾いていた。
重成は家康が笑おうと、何も表情を変えない。
先程から家康を貫き続けるその視線さえ、動かす事は無かった。

「そうだな・・・お前には何も隠せないんだったな・・・思い悩む余りに忘れていたよ」

「家康様が物を忘れる程とは、よっぽどなのでしょう」

重成の眼光が緩む。
どうやら重成は家康にも只ならぬ理由がある事を把握したらしい。

重成はあくまでも、豊臣秀吉の小姓だ。
君主に仇名す存在はたとえ従属関係下の者でも容赦はしない。
牙を向く者は、どんな因果があろうと皆敵だ。
その精神を掲げる重成にとって、どれだけ家康が信頼に足る人間であろうと、気の合う人間であろうと、暖かい人間であろうと、
そして、闇に生きる自分に、唯一共感出来る光を持つ人間であろうと
常に、第一は君主なのである。


「どうか、その胸の内をお聞かせ下さい。次第によっては、貴方を疑わねばならない」

徐に家康の表情は曇る。
果たしてこの悩みを豊臣の人間に言っても良いのか、
しかし、相手は重成だ、何も無いと言った所で信じるとも思えない。
隠せば仇をなす事を企んでいると判断されかねない。

「・・・・・・」

「・・・・・・」

だが、ここは彼を信じよう。
信じてみよう。
ワシが知る限り、重成は突然激昂するような人でもない。
信義に厚い彼なら、立場は違えど、分かってはくれる筈、

家康は苦虫を噛み潰したような表情で、重成の視線に応えた。
重成の表情は仏頂面そのものであったが、家康に焦(じ)らされているせいか、少し憮然としている事が伺えた。
そんな重成の眼を真っ直ぐ見つめながら、家康は言った。

「・・・・・・重成は・・・・慈悲を乞う人間を斬る事をどう思っている」

「・・・・?」

途端に重成の眼は圧を失い、細い目は丸くなる。
重成は家康の言葉に、驚いているのだ。
それもその筈、人を斬った過去のある彼には、今更過ぎる質問でしか無いからだ。

「一体如何なされた・・・殊更にそのような御下問・・・」

「・・・・・・・」

家康は大きく、それでいて深いため息をついた。
そして暫し俯くと、言葉を続けた。

「ワシは時々分からなくなる。豊臣が目指す天下と、ワシが望む天下が同じなのか・・・逃げる民衆でさえ追い詰め、阿鼻叫喚の飛び交う今の先に、本当に平和な天下があるのかどうか・・・」

その表情からは、重い悩みである事が鮮明に浮かんでいた。
視線は待とうと上がらないし、声はいつもと違ってとても弱弱しい。
完全にらしさを無くした家康の姿が、重成の眼の前には存在した。
しかし、そのような家康を見ても、重成は冷静な態度を一切変えなかった。
驚きはしていたものの、既に重成はいつもの様に振る舞う。

家康が頭を抱え込み、悩んでいる事は理解出来てはいる。
それが家康にとってどれだけ深刻な心痛であるのかも、重成には分かる。
しかし、何かが違った。
今回は重成にも理解の難しい、家康の胸中があった。

「家康様の思い描く天下とは、一体どのような物なのでしょう」

「ワシが思う・・・天下・・・?」

「えぇ、貴方が望む天下とは、どのような姿をしているのですか?」

家康が望む天下-----

それは、誰もが『平穏』に暮らせる穏やかな世-----
武器を取り合う事も無く、人々が笑って生きていける世の中。
それが家康の望む天下の形だ。

「・・・誰もが幸せである世の中・・・それであればワシは満足だ」

「幸せ・・・・・」


重成の表情は固まり、目は家康を覗き込むようになる。

「幸せとは、何でしょうか」

その言葉に、家康は凍りついた。
同時に、前に彼が語ってくれた、自身と三成の過去を思い出した。

幼い頃から、親族の愛も隣人の優しさも、何も与えられずに育った二人-----
元より大名の傍で生まれ育った家康にとっては、それがどれ程の苦しみであるのか、想像すら出来ない。
絶望の中で育った兄弟は、絶望でしか生きられないのか。
そう、初めから絶望の中に生まれた人間は、幸せが分からないのだ。
感じる事を否定している訳ではない。虚心に分からない。
何故か、
『幸せ』を感じる情念が欠落してしまっているからだ。

家康は重成の質問に答えられないまま、視線を下げ続けた。
重成はそのまま言葉を続けた。

「他人の五臓六腑は誰しも完全に理解出来る物ではありません。合縁奇縁とは、その為にある言葉です。先程申しておられた阿鼻叫喚が家康様の耳にどのような形で聞こえているのかは私には分かりませんが、少なくとも私の耳殻には意味を持たない声----即ち、『音』にしか聞こえていません」

そう、
重成は民衆の嘆きさえ、『音』にしか聞こえていない。
家康とは決定的に違う感性だ。
顔を上げた家康を見るなり、重成は大仰に肩を揺らし、嘆息を漏らしながら言葉を紡いだ。

「大方察しは付きました。秀吉様の命令に服従するだけでなく、独自の動きで北条と豊臣を図る御積もりか」

「左様、その通りだ」

家康はゆっくりと重成に向き直った。
瞳には、微弱ながらもいつもの家康らしさが戻っていた。
恐らく誰かに相談した事により、少しは胸の内が晴れたのであろう。

「だからこそ、このことは他言しないで欲しい。お前に話をしたのは、ワシがお前を『信じている』からだ。他の豊臣の人間に知られてしまえば、意味が無くなってしまう」

怪しいのは重々分かっている。
不穏な動きと見られた時点で、仇をなすと見なされてもおかしくない事も分かっている。
だが、お前には理解して欲しい。
ワシの理想を見ていて欲しい。
闇に生きるお前や三成に教えたい。
この世界に蔓延るのは絶望だけじゃないという事を。

重成は少し家康の思惑を感受したらしく、彼の言葉を聞くと少し口角を持ち上げた。
依然瞳の奥はピクリとも笑わない。

「勿体無き御言葉、家康様が他言無用と申すのならば、この件は黙秘しておきましょう」

言葉の感情だけが籠った台詞。
声は何処までも乾き切っていた。
しかし、信義を重んじる彼が言うには間違いは無いと、家康は確信している。
そのまま感謝の意図を伝えようとした、その時だった。







    
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