ある凶王の兄弟の話2

□紫紺七つ片喰
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蹄が地を蹴る音と共に、徐々に潮騒の音が周囲に漂い始める。
聴こえている。だが、意識して聞いていなければ聴こえない。
何にせよ、まだ周囲に海景色は見えないが沿岸沿いの道に出始めたのだろう。僅かながら海の匂いも漂って来る。
特に嗅覚に敏感である訳ではないが、嗅ぎ慣れない磯の匂いに鼻を曲げそうになる。
海猫の鳴き声。
鴎の鳴き声。
旅路に存在する聴き慣れない音や匂いの数々が重成に新鮮に迫ってくる。
木々の隙間にさえ背丈の半分はあるであろう、丈の長い草が生い茂り、満足に海を眺める事は出来そうにない。
海の波は比較的静かなものである。
打ち寄せては引いてを繰り返す単純な音。
果たしてこの僅かな音を何人の兵士が聴いているのだろうか。
隊列からは話し声の一つも聞こえはしない。
昔からそうだ。一切の私語を慎むように教えたのも、ただ先頭だけを見据えて進めと彼らに教え込んだのは、今は亡き半兵衛。彼亡き今も私達には習慣付いている。
故に、彼の教えた事は隊列の空気感として残り続けている。勿論重成や三成とて例外はない。
報告に訪れた忍を除き、他愛なき話を口達者に喋る者がいる方が異常だ。
石田軍が結成された当初に迎え入れられた新兵でさえ周囲に合わせて一言も声を発さない。暗黙の了解のようなものになっているというのに。

「……」

風を切る。
ピリピリとした風が頬を掠める。潮の混じった風のせいだ。
進軍の雰囲気には慣れている。
慣れないのは潮の匂い。
前方の木々が徐々に数を減らしている。もうすぐ海が望める場所に出るのだろうか。
しかし、何かが気に引っ掛かる
前を目指す中、一人重成の気は不自然に昂っていた。
未知の土地を訪れる子供が覚えるような興奮からの昂りではない。
この木々を抜けてはならない。確証も根拠もない予感。
嫌な予感だった。
音や匂いではない。第六感が何らかの危険を察知している。
無意識下で周囲に張り巡らせている危険網に何かが掛かっている。
依然として何があるかまでは分からない。あの木々を抜けた先に、何かあるのか。それとも気のせいなのか。
被害的な妄想が過るだけなのかもしれない。本当にそうだと良いのに、
重成は言い知れない不安に眉を寄せた。

「兄上。この先はお気を付け願います」

前方を走る三成の背に向かって重成は言った。
喋り声一つ聞こえないその空間の中では、重成の声は旋風や蹄の音に掻き消されることもなく通ったが、三成は振り返る所か相槌さえしなかった。
聞こえていない筈がない。天君に跨っているとはいえ、彼とはそう離れていない。
三成は故意に反応を返さなかったのだろう。
理由は…分からないこともないのだが。

重成自身も気に掛けず、ただ前を見据えた。
胸に宿る一抹の不安に似た感情。
周囲に気を配った。

「如何した?重成よ」

隣で不思議な輿に乗った吉継が問い掛ける。

「…いや、単なる杞憂なのかもしれない。先程から不安が拭えない」

重成は前を見据えたままだった。今は乗馬しているのだ。無駄な余所見は最小限に抑えなければならない。
下手をすれば舌を噛む事になる。
吉継は顎に手をやり、小さく相槌を打った。

「ぬしの予感はよく当たる」

短くそれだけを告げると、吉継は考え込んでしまった。
考え込んでいるように見えるだけなのかもしれない。彼が何を思っているのか、重成には何も分からないのだから。

もしかしすると、いつかの忍の奇襲のように、こちらに攻撃を仕掛けてくるような刺客がやってくるかもしれない。
この状況。誰が襲撃してきても何らおかしくはない。
情報を得ようと気を張り巡らせても、重成が得られるのは現時点でここまでが限界。
予知師でもあるまい。不安は杞憂である可能性さえあるのだ。
しかし杞憂であれと願えば願う程に、その不安は嵩を増して胸を一杯にした。気付けば手には汗さえ握っている。
この緊張があってこそ、すぐに変化に順応出来るのかもしれない。

「!」

全くその通りだった。ぶるり、と肩が震えた。
重成が感じ取ったもの。
殺気。
殺意。
禍々しい気配がこちらに向けられている。こんなにも棘のある殺意を向けられたのはいつぶりなのだろうか。
これは純粋な殺意ではない。
憤怒だ。
怒りが入り混じっている。
怒りが悲しみとなり、復讐の心に成り果ててしまったそれと同じだ。
こんなにも明確な気配とは、並外れたものであることは間違いない。

「止まれ!!」

三成が最前線で叫んだ。
その瞬間、誰もが強く手綱を引いて馬を止めた。
土を削る音が海辺の森を駆け抜ける。
重成は誰よりも三成の声に驚いた事だろう。
何せ、予感に気付いていたとはいえ気を張り巡らせたままだったのだから。
弛緩した手に鞭打ち、彼は手綱を強く引いて馬を止めた。
しかし、三成の声に驚いたままで手綱を引いてしまったせいで、己の不安が天君にまで伝わってしまった。
止まった後もわたわたと足踏みを続ける天君。
興奮している証だ。足踏みだけでも、それは気が動転しているサインなのだ。
鬣に触れて馬を落ち着かせる重成。
案の定天君はすぐに平静を取り戻してくれた。

ざわざわと騒ぎ始める兵の列。
吉継はそんな彼らを片手で静止させた。
三成はざわつく兵士達を尻目に、周囲の木々を見渡していた。
重成と同じく、ひりつく殺気を感じたのだろう。
静寂に包まれる空間。
木々が遮った太陽の歪な光が、隊列に影を焼き付ける。
木々の合間をビッシリと覆い尽くす丈の長い草が揺れた。
雀の声が聞こえる。
この静寂は、嵐の前の静けさとでも表現すべきなのだろうか。

「…来る」

その瞬間。
ガサガサと草が揺れる。
明らかに風に靡いて動いているのではない。人為的に起こされた揺れ。
それが示唆する事実は、一寸早く脳裏に結果を呼び起こす。

木々の合間に生えた草から、多くの人が飛び出してきた。
それも、十人や十五人なんて人数ではない。
四十・・・いや、五十は超える兵士だ。
その軍勢が左右から一斉に、まるで石田軍そのものを囲い込むような形で現れた。
現れた者達の手には刀や槍が握られている。
それだけではない。オールと思しき物や碇鎌を携えている者までいる。
皆素肌の上に甲冑と羽織を着て、頭には鉢巻を巻いた格好。
見覚えがある。
この身形、武器、家紋。どう考えてもこの者達は…−−−

「長曾我部軍…!!」

迎撃の態勢に出る間も惜しく、彼らは雄叫びを上げながら一斉に襲い掛かってきた。
これ程までに拙い事態は初めてだ。

「動け!馬を走らせろォ!!」

後方の家臣が叫ぶ。
この状況で馬を走らせるのは、パニックのリスクはあるが最善だろう。

重成は勢い良く手綱を引いた。
三成の馬が駆けだすと同時に、馬を走らせる。
後方の兵士も、狂いなく手綱を引いて馬を走らせた。
豊臣軍であった頃から続けていた、乗馬しながらの団体行動の訓練は、兵士にも馬にも生かされたらしい。
一指乱れなく馬は走り出す。
蹄の音が一定のリズムを奏でる。
舞い上がる砂埃。高く嘶く声。
走り出した馬に襲い掛かろうとした長曾我部軍の者は、無残にも馬に蹴られて吹き飛ばされていた。

木々の中を走り抜ける。
一難は去った。
多くの者が胸を撫で下ろした事だろう。
目の前には、既に木々がない出口のような空間が広がっている。
きっと海沿いの道に出る。

待て。と、
刹那、重成が前に進むのを躊躇った。
微弱に手綱を引いてしまった。
天君は微弱な手綱の動きに敏感に反応し、速度を緩めた。

「天君…!」

ダメだ。今速度を緩めては。
こんな所で突然馬を止めてしまっては、後方の人々にどんな被害があるのか知れたものではない。
止まる訳には行かないのだ。
重成は再び手綱を握り直した。
天君はすぐに速度を戻した。
だが、進みたくないと心が叫ぶ。
しかし後方で走る兵士や、茂りから現れた長曾我部軍の者がそれを許さない。
流れるままに馬を走らせる事しか出来ない。
いっそ気分が居直ろうとさえする。

森林を抜けた先に待っていたものは、与えられた安堵の猶予さえ悉く奪った。

        
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