ある凶王の兄弟の話2

□波間の上にて
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元親は少し驚いた様子で振り向いた。

「よォアンタか。船の上が慣れねェのかい?」

こちらに気付いた元親は、拒む様子すら微塵も見せる事なく笑った。
重成はその表情を見つめる。
横に広がる口角。不自然に口角と同時に動く目元。
多くの者の表情を分析していた重成には分かる。完全に作り笑いだ。
流石に真っ直ぐな彼は表情を繕えないらしい。
だが、その事については触れず、重成は言葉を刻む。

「船上は初めてではないのですが、確かに気分は悪い」

「なぁに、二、三日もすりゃ慣れるモンだ。俺ぁ物心ついた頃から船の上にいてな。酒に酩酊した事はあっても船酔いなんざ経験外だせ」

「虚妄ですね。貴方は既に船に『心酔』しているでしょう」

一瞬の沈黙。
意味を理解した元親が盛大に笑った。
擬音にするなら、ゲラゲラといった感じた。
それは偽りの笑みではなく、自然に漏れる在り来たりな笑みだった。
だが重成には、どうもそれが元親の心の底からの笑いには見えなかった。

「カッハッハッハ!そう来たか!アンタは石田と違って冗句も言えるらしい。クハハ、面白ェ。あぁ、確かに船事態には酔ってるぜ」

元親は御猪口に入った酒を飲み干すと、それを船のガンネルに置いた。

「俺からすりゃ、将なんざ狭い大陸の中で土地を取り合う餓鬼も同然だ。海を見ろ。遍く空と海の水平線。この広い海には陸のような果てはねェ。海の先には誰も見たことがねェ世界が広がっている。船は、その世界に唯一運んでくれる代物よ」

夢を語る元親の声には、熱が籠っていた。
大きな期待を秘めた熱い眼差し。
まるで、未知の世界を目前とする冒険家のように。
実際は相違ないのだろう。
重成はこの言葉を聞いた事がある。
それは過ぎ来し方。
かつて重成が小姓として仕えていた君主。
二人の君主も、同じことを重成に語っていた。
日ノ本を治めた暁には、世界を目指す。
心の奥底に押し留めていた備忘録のようなものが、一気に溢れだす感覚を感じた。
懐かしくも、もう二度と戻ることの出来ない過ぎ去った刻。

「貴方は何を目指していますか」

そんな重成の口をついたのは、ごくありきたりな質問だった。
もう取り戻す事は出来ないが、その質問はいつか君主に問おうとして奥底に留めていたもの。
備忘録から湧き出すように出てきた記憶の一部である。
その質疑に対し、元親は物憂げに微笑んだ。

「俺としちゃあ、道程に目的なんざいらねぇと思ってる。だが一人の将としては、そんな考え方あっちゃァならねぇよな」

「…貴方は、いつからその立場にいるのですか」

「俺ぁ生まれた時から従五位だの正五位だの、そんな厄介なモンに囲まれてたぜ」

呆れ半分に口を開く元親。
外見からも分かる様に性分に合わなかったのだろう。
人の作り出した上下関係の上に成り立つ狭い世界は。

「長曾我部元親。貴方の噂は細川氏から良く耳にします」

「何だ。アンタは細川の連中とも親交があったのか」

「ほんの一縷な縁ではありますが」

重成は一つ、間を空ける。

「貴方が海に出た理由も彼等からお聞きしました。惜しい人を一人、亡くされたと」

「…あぁ。信親の事か」

長曾我部信親。
戸次川の戦いで命を落とした、元親の息子の名だ。
細川氏の話によれば、元親が四国を離れて海へ出るようになったのは彼の死が一因していると聞く。
元々は四国の近辺を船で彷徨いていたらしい。
元親は空を仰いだ。

「決定に背いて戦わず、しかも不覚の敗軍として、どんな面を下げて再び都に帰れよう。しかれば死すべき時節が来たのだ。アイツはそう言って殉死した。だが、誇れる事じゃねぇか。信親は良くやってくれたさ。アイツの死を悼んでやりてぇのは山々だが、いつまでもグズグズしてられねぇ」

一人の人間として悼もうとする考えを持っても、
その思案は、一人の将として許される考え方ではない。
元親はそれを自覚しているのだ。
彼の隻眼に映った小さな星の数々。
美しくも、どこか儚げな小さな光の粒だった。
やはり、秀吉様とは違う。
見つめる先は同じでも、その心に思い描く未来が全く違う。
両者は決して分かり合おうとは思わず、また分かり合えないだろう。
その証拠に、この長曾我部元親は、豊臣を…いや、羽柴を、織田を攻め落としに来た事がある。
元親はどうかは分からないが、重成は鮮明にその戦の事を覚えている。
だがそれは昔の話だ。今更そんな話を持ち出すつもりはない。

「そういや、まだアンタの名を聞いてなかったな」

「私ですか」

「あぁ、アンタ名は何て言うんだ?」

「…私の名は…」

困惑した。
名を聞かれるのは苦手だ。
一呼吸置くと、重成は元親に向き直る。

「…私は、石田重成です」

「石田、重成か」

元親は手を顎にやった。

「聞いた事もねェ名だな。だが石田って事は、アイツの兄弟なんだろう。見た所義兄弟でもなさそうだ」

「……」

重成は俯いたまま動かなくなる。
機能が停止した絡繰のように。
一瞬ではあったが、重成は人らしさを失った。
まるで絡繰のように項垂れる。
だがその表情には落胆の色も、悲しみの色も、何一つ貼り付けられていなかった。
だが思案する元親に、重成の表情を汲み取るだけの配慮は残されていない。

「重成。アンタは本当にアイツの弟か?」

「…どうでしょうね」

「確かにアンタ等は生き写しみてェに瓜二つだが、奴とは考え方が決定的に違うようだな」

「そうですね」

表情に何も貼り付けられていない中で、琥珀色の双眸は怪しげな光を放ったままだ。
澄み切った琥珀色は目の前の元親の姿も、空の星も、まるでその中に一つの世界があるかのように全てを反射している。
反射するだけの瞳の奥には、底無しの闇が広がっているというのに、
重成は目を細める。

「…どうか、三成と私の詮索は止めて頂けませんか」

どうもその話をされると、後ろめたい心持を拭えなくなる。
そんな重成の情緒を汲み取ったのか、元親は短く「悪い」と告げると海に目をやった。

暫しの沈黙。
夏の終わりだというのに、風が冬の物であるかのように冷たく感じた。
その沈黙を破ったのは重成だった。

   
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