ある凶王の兄弟の話2

□空に地の影月に消ゆ
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予想通り、帰還に費やした時間は、往きに比べてさして長くはなかった。
とはいえ時にして一日と半日。武田に向かうに掛けた時間と比べれば、差はおおよそ半分だ。
あの時は道すがら様々な危機に陥った為に、道中で止まらねばならない程切迫していたが、帰路には何もなかった。勿論、それは喜ばしいものだ。
刺客の一人もなく、通りかかった寒村には人がいない。この先の大戦がどれだけ熾烈なものになるのか。それを思えば無事に大阪まで辿り着けたことも、嵐の前の静けさのように感じた。


城に到着した時には、既に表は夕闇に覆われていた。
松明の明かりは煌々と燃え盛り、周囲の凹凸を浮き彫りにさせている。
ようやっと馬車が止まると、三成の猛々しい声が響いた。
共に低い法螺貝の音が鳴り、ガシャガシャと甲冑が蠢く隊列が窓の外から見える。
正澄は蝋の火を消し、銃をホルスターに仕舞い、重い刀を手に馬車から降りた。

懐かしき大阪城を見上げる。ただ遠征に行っただけだというのに、その佇まいを酷く懐かしく感じた。
大将の一集が城を留守にしていたというのに、よく誰にも攻め込まれずにいたものだ。

「全員集まっておるか!?」

確認の為に声を張り上げる将。ざわざわと騒ぎ始める周囲を他所に、正澄は真っ直ぐに歩いた。虎口の手前には吉継がいる。
吉継はこちらに気付くと、笑ったように少し目を細めた。
正澄はちらりと目を向けただけで歩調を緩めはしなかった。それは吉継も承知のようで、並列した所で正澄の歩調に合わせて輿を動かし始める。

「休めたのか?正澄。馬車はさぞ窮屈であったろう」

「憂懼には及ばない。御蔭で十分な休息が取れた。…ただ、」

「ただ?」

「足が随分と痺れたな」

「ヒッヒッヒ。退屈だったと言えば良かろうに」

吉継の横顔は、空洞の甲冑のようだった。口元は微かに震える程度で、その顔貌の一切は隠されている。まるで、心を覗かれる事を恐れているかのように。

「三成の背姿も随分と変わったものよの」

「何だ。藪から棒に」

「ふと、そう感じただけの話よ」

視界の奥。
隊列の先に三成の姿が見えた。どこを見るでもなく、大衆を前に彼等を眺めているような様子だった。
凪を思わせる彼の佇まい。先日からは想像も出来ないような顔。
遠征の道中の様々な困難に直面し、彼も少しは成長したのかもしれない。
正澄は眼を細める。

「私には、三成が何か変わったようには見えんがな」

正澄の言葉に対し、何が可笑しいのか、吉継は不気味な引き笑いを続けるのみだった。

これから早急に軍議が開かれる予定だ。正澄や三成はそれに出席し、その間他の大将は軍の士気を高めたり、指示を与える役割を担っている。単純な作業だが、家臣には出来ない重要な役割なのだ。

虎口を超えた先では、帰還を待ちわびていた人の隊列で溢れかえっていた。松明の火に浮かぶ五百を超える人の波が石田の旗を掲げ、銀色の甲冑に身を包み、静かにこちらを見据えている。
先導する三成が城に近付くにつれ、隊列が城への一本道を作り上げてゆく。壮観な図だったが、これに対して感嘆の声を上げる者は一人もいない。昔から築き上げた石田の団体行動だ。1つのパレードのように、一糸乱れぬその動きは、これまでにも他の軍を圧倒してきた。
門を潜った先の城中は相変わらず静まり返っており、一定間隔に燭台が置かれている他、何もなかったが、この静寂を酷く懐かしく感じた。
天守閣に向かう道すがら、城の中を微かに漂う血と泥の匂いが鼻を掠めた。思わず肩に力が入る。あの一連の惨劇が思い起こされる。

「どうした?」

「…いや」

僅かな動揺にも目敏く吉継には見抜かれてしまう。兎眼とはいえ、夜目が利くのは吉継とて同じらしい。
ちらりと周囲に目を向けるが、あの惨劇が広がっていた場所は他の部屋と大差なく、小奇麗に纏められていた。
辺りに鏤められていた血水は拭われたのか、それとも壁面自体を替えられたのかは分からないし、そんな事を追及するつもりもない。今更あの瞬間を蒸し返す必要もあるまい。誰にだって恐怖の記憶は存在するのだから。

天守の扉を開け、次々に家臣が座ってゆく。西洋にヒントを得た一室。奇抜なデザインの四足長机がいくつも連なり、背凭れのついた椅子が並べられている。あれほど散乱していた軍事書も綺麗に整頓され、元の清楚な雰囲気を取り戻していた。壁には依然と変わりなく、日ノ本がどこにあるのかもわからない地図が一面を覆い尽くしている。それに描かれた筆跡も、豊臣が全盛を振るっていた頃と何も変わらない。
人の波に押されるように、正澄もまた座り込んだ。
部屋の最奥で三成が座り込むと、家臣の一人が扇子をピシャリと畳み、興奮気味に「静粛に!括目を以て我が談に耳を傾けよ!」と、声を荒げて、感情の昂ぶりをあらわにしていた。

「ついにこの時が来る!三成様が復讐を誓った者の首を獲る時が目前と迫りつつある!此度は、確実に東照の首を刎ねる為の討議である!心して意見せよ!」

家臣の視線が吉継に向けられた時、吉継はこくりと頷き、地図を手に言葉を綴った。

「進軍、及び進行については我が請け負う。良く聞け。豊臣の軍師宜しく、我も一度しか言わん。忍の話によれば、東軍の戦力はこちらと同等、若しくは少し上だと予想した方が良い。だがこちらには先導者の頭数がある。毛利もいれば我も、宇喜多もおる。仮に手数が劣れど、東軍よりも利口に軍を動かせる筈だ」

吉継は口頭のみで話し、地図や図面を全く用いなかった。だが、具体的な指示が多く話さえ聞いていれば誰にでも理解できるような内容だった。

不思議と、吉継の言葉が頭に入ってこなかった。長い話だ。と、ぼんやり聞いているだけのせいで、理解のタイミングが遅れる。

「指揮の中心は毛利となろう。布陣は『鶴翼の陣』を敷く手筈だ。三成の拠る笹尾山、宇喜多の拠る天満山、金吾の拠る松尾山、そして毛利が布陣する南宮山。この節で東軍を囲む。…しかし」

徐に言葉を濁す吉継。家臣が訝しけに吉継の眼を眺める。

「何か、問題がおありか?」

吉継は黙していたが、やがて言葉を切り出す。

「我の勘では、金吾には裏切りの気がある」

一気に場が淀めいた。皆の目は「裏切りの気がある者に、どうして大役を担わせるのか」という疑問が浮き彫りになっていた。それを感受してか、吉継も話を続ける。

「皆が言いたい事はわかっておる。しかし、金吾を戦線から離せば、奴を味方に付けた意味もなかろう。同時に西軍を裏切れと示唆しているとも受け取られかねん」

再び静寂に包まれる空気。家臣の一人が言う。

「この点については後に補強を行うべきだが、今最も問題視すべきは、本多忠勝の脅威だ」

吉継はううん、と唸る。

「対抗手段があるとすれば、島津だの。あの古株に任せておけば、幾分か足止めは利くかもしれぬ」

決して『倒せる』とは言わない吉継は皆の見えぬ不安を煽る。
他人に対して高望みしないのは、吉継が根本から誰も信用していないせいだ。
正澄はそれを知っている。三成はどうだか分からないが。

長く、退屈な軍議が続いた。話は堂々巡りを繰り返しては進展する。
正澄はその間、横耳に聞きながら揺れる蝋の火を眺めていた。


一頻り話し合いが続いた後に、ふと吉継の眼が三成に向いた。

「三成。防衛は我らに任せ、ぬしは関ケ原を真っ直ぐに超えよ。その先に必ずや徳川がいる」

徳川、という単語に三成が反応する。彼が握る刀が強く握力を掛けられ、ギリギリと音を出した。

「家康…家康…!必ずや誅してやる…貴様の罪を…!」

低く唸る三成。その覇気はただ座っているだけだというのに、場の空気を一瞬にして凍らせた。

「正澄よ」

名を呼ばれて吉継を注視する。いつの間にか俯いていたらしい。
正澄の名を聞き、少し周囲が騒めいた。今までは誰も彼もに諱で呼ばれていたのだ。ひそひそと小話をする家臣の内心も分からないでもない。

「ぬしは三成に付け。もしもの大事に備え、西軍の大将を護れ」

その言葉には強い信頼を感じた。
だが、正澄は決して首を縦に振らなかった。

「私は大阪城に残る」

その瞬間に、三成とはまた別の意味で周囲が凍り付いた。
唐突な発言に皆呆気にとられ、口を閉じることを忘れている。
長い沈黙の末、三成が言葉を刻んだ。

「弥三。…貴様、逃げるつもりか」

正澄の位置からでも、三成の眉間に深い皺と血管が浮き出たことが確認できた。
正澄はこれにもまたかぶりを振った。

「東軍の中に私が警戒を置いている者がいる。『羽州の狐』です。奴は戦わずして勝つ戦法と得意とする狡猾な将。奴が堂々と戦場に赴くとは思えない。私が羽州の将であれば、大阪城を叩きます。拠点を叩いておけば、内側からこちらの戦力を削る事が可能です」

一呼吸置いたのち、再び言葉をつづける。

「安全を確認出来れば、必ずや関ヶ原を訪れましょう。一騎当千の鬼(キ)と成り、この戦を終わらせて見せます」

命令を遂行していただけの彼の姿は、もうどこにもない。
自らの意思で、自らの思いで、自らのやり方で。

家臣は何も言えないままでいた。
吉継は正澄の決意に対し、深く頷いてみせた。

「ぬしの赴くままに、駒を進めよ」

蝋の火が揺れた。
半開きの窓から、秋の冷たいそよ風が吹く。
三成の視線から威圧が消える。だが、その眼光は鋭い光を纏ったままだった。

「…決して抜かるな。弥三。何があろうと秀吉様と半兵衛様の眠るこの場所を護れ」

熱の籠った言葉に対し、正澄は口角を少し持ち上げた。「それも尤もですが、」と、彼は続けた。

「私は貴方が帰る場所を護るのです」


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