ある凶王の兄弟の話


□決意
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「家康様!早にご決断を!」

家康は未だに迷い続けていた。
先に小田原へ出向いた二人の護衛をつけるか否かが問題ではない。
それは上に命令された使命である。反駁して逆らうつもりもない。
問題は気持ちだ。
家康は未だに気持ちの整理が出来ていなかった。
重成が家康を捨て置いて三成と小田原へ向かってしまった時からずっと、家康を取り巻く感情が歪み続けている。

ワシに、あの二人を追う資格はあるのか・・・
追った所でどうする。争う事になればどうする。
もうワシは誰も傷付けたくないのに...

淀みは膨らみを増すばかりだった。

「すまんが時間をくれ。行って三成達の足手纏いになればワシの顔も潰れたものじゃない。このまま行っても邪魔になるだけだ」

家康の心はくすんでいた。
彼は人が傷付くかもしれない事実を受け止められずにいた。
そんな弱い自分さえ、受け止められない。

今まで見たくないものも全てこの目に焼き付けたと言うのに---
この後に及んで脳裏は行動を拒絶する。

何故今回ばかりはこうも思考が鈍っているのか、
それだけは分かっていた。

「薄い紙に 書かれた嘘一つ信じるだけで荒廃を辿ることになる」

そう、重成が発したこの言葉だ。

その一言は、家康の警戒の範疇に無い事柄を全て浮き彫りにしていた。
だからこそ、酷く驚いた。
まさか、降伏の文が嘘とでも言いたいのか?
何故彼らがこれ程までに人間を信じないのか、分からない。
まるで嘘が前提であるかのような彼の物言い。
疑心暗鬼とは言うが、だからと言ってわざわざ赴いてまで二人が真意を確かめる必要はあるのか。
家康が導いた答えは否だ。
しかしあの三成の事である、恐らく遣いが信用出来ないからであろう。
君主以外は己しか信じない彼だ、傍らの重成は信じる者が他に有るかさえ疑われる。

家康はそれ程二人の事は良く知っている。
だから、中途半端な気持ちで彼等の背を固め、失態をかくのが嫌だった。
失態を晒すのは誰であれ嫌う物だが、特にこの二人は従属関係者が約立たずと判断した場合何を言い出すか分からない。
首を差し出せと言い出すのも過言では無いのだ。
弱者を遠慮も無く踏み躙ってきた人間であれば尚更である。

「邪魔立てを気になさっている場合では御座りません!」

「このままではあの三成様が北条に何をするのか承知した事では御座いますまい!」

「しかし・・・ワシが行った所で何か変わるとは思えん」

「それを本気で仰っているのか!?家康様!」

声は随分前から振り切られていた。
しかし、説得に振り絞られた声や意味さえ、家康には通らない。
家臣は家康の決断を促す。
依然、家康から返答は無い。
何処までも黙秘しながら下を向いている。
それでも家臣は諦めずに家康に語りかけ続ける。
何せ彼らは家康を見続けてきた、家康の良き理解者達なのだ。
家康自身が俯く訳にも行かないと、本心ではそう嘆いているのを知っている。

「そうですぞ!帰還なされる際に北条の首でも携えていてごらんなさい!また力で敵軍を捻じ伏せた事になります!」

「そうなるのを誰よりも嫌っているのは貴方様でしょう!」

・・・そうだ。
ワシは何をしている。
このまま動かなければ何も変わらないのに、何故ワシは立ち止まっている。

彼らの言葉は、徐々に家康に響き始めた。
理解者であるだけではない。
忠臣達は家康の事を良く知っている。
そこには、幼少の頃から----家康が未だ竹千代で、そこから四回に渡り名を変え続けた彼の成長さえ見届け続けた者も居た。
重成とはまた別の視点から家康を良く理解する者。
親身とも言える場所から理解する者。
その者達が発する言葉には、家康に良く染み入る優しさがあった。

終止符を打つように、声を荒げていた家臣たちを宥めながら、一人の老いた家臣は言う。

「某は家康様がそれを望んでおらぬ事を知っております。我々はあの兄弟を手伝えとは申しません・・・どうか・・・

あの二人をお止め下され」

「・・・・・・」

止める。
援護するでなく、止める。
秀吉の命令以上、家康の脳裏は望まない事を受け入れようとしていた。
しかしその言葉は、家康にとってはまるで自分の心の声のようであった。
己の奥底で、意思に向かって叫び続けられていた言葉。
そして、声に気付くまいと耳を塞ぎ続けていた意思。
それを理解した時、家康の中で何かが変わった。

たとえ人が望まない事は分かっていようと、従属関係下に有る身故に踏み出す事の出来なかった勇気があった。
勇気を堪え、傍観する度に増す疑問。
己の考えと太閤の考え、どちらが万人の為になるかは分からない。
しかし、家康の中には確かに秀吉とは違う考えがあったのだ。
今まで押し殺してきたその考えは、日に日に確立され続けた。
重成に押されてこそ形を成した考えもあった。
そして今-----

「家康様・・・!」

「ワシは・・・・!」

家康の拳に力が籠る。

今まで、何も証明出来なかった。
口だけが夢を語り、真実から目を背けていた。
口先だけは、もう止めだ。
太閤によって支配される未来に、民の笑みはきっと無い。
更生する・・・
・・・いや、してみせる!
ワシは-----

「あの二人を・・・三成と重成を止める」

家康は皆におとらぬ声色で、そう言った。
決意。
その言葉には、ありったけの決意が込められていた。
家康は立ち上がる。
その瞳には、今まで視界を妨げ続けていた迷いの姿は無かった。
陽陽と照る太陽のような暖かみが、彼の瞳には戻っていた。
家康の決意が固まれば、自然と家臣達の肩にも力が入った。
それは緊張の為ではない。
今まで子供と言っても過言では無かった家康は、これ程までに成長した。
嬉しくあると同時に、彼が纏う空気が、周囲の者達を震撼させたのだ。
勿論、悪い意味ではない。

「・・・ワシは愚かだった。受け入れるだけで己の意思に背き、人に同調するだけで目の前の軋轢(あつれき)さえ見て見ぬ振りをしていたのだろう」

家康は己の掌に目をやった。
それは小さな、三河の人間の掌。
恥を恐れて看過した、弱い人間の掌。

悲しげな表情で掌を見詰める家康に、家臣たちは視線を注ぐ。
従来家康を見続けていた、忠臣達の眼差しだ。

「分かったんだ。今必要な事は諒解では無い。軍の旗を巻く事だ。秀吉殿に問答で釈義が無駄だと言うのならば・・・」

家康は両の拳を合わせ、篭手を打ち鳴らす。

「ワシはこの拳で、絆を証明して見せる!」

いつも発せられる、空気を震撼させる強い声で、家康は言った。
家康が言葉を発すや否や、家臣達も満足げに頷いた。

「そう、それでこその竹千代様に御座います」

前を向いていてこその家康。
家臣はそう言った。

家康が立ち上がった事により、示唆された事は誰もが理解していた。
それは即ち、石田兄弟の援護ではなく、あの兄弟の横暴の阻止。
家康が指示を出さずとも、止めるという言葉を発した時点で、それは既に決定していた。
しかしそれは同時に、秀吉の意思に真っ向から背いた行動である。
だが、だからこそ家康は危殆を背負った。
情報が上に伝わる危険を承知したのだ。
家臣は早速、行動に移ろうと案を出す。

「我らは直ぐに軍を用意致しましょう。家康様は遅れを取り戻す為にも、急ぎ小田原に参られよ」

「あぁ、分かった」

「我らも準備が出来次第、馬を走らせる故」

家康の前に居る家臣たち達の中には、家康を単騎で向かわせる事に異論を唱える者は居なかった。
家康が成長したことを誰よりも知るからだ。
すこし前の槍を振るっていた時であれば心配で異論を唱えない者は逆に居ないだろう。
だが、家康はもう子供ではない。
家康は目覚ましく成長した。
忠臣達が身に染みて理解した事実だ。
今更家康を止める者など居なくて当然だ。

「了解した。小田原の地にて、皆を待つ事にしよう。くれぐれも道中、気を付けてくれ」

「言われるまでものう御座います。家康様に武運を」

家臣が言うと、家康は深く頷いた。
同時に縁側の外に駆けると、声を上げた。

「忠勝!行こう!目指すは小田原だ!」

家康が言うなり、曇天は鈍色の甲冑の光を反射した。
空から家康の居る縁に目掛けて飛来した者は、力強く縁の石を踏み締め、地に着く。
それは巨体を余す事なく全て甲冑に包み、鹿角脇立兜に立葵の描かれたバックパックを背負っていて、右目からは怪しくも紅い光を放っている。
肩から大数珠を下げ、手には機巧槍を携えていた。
飛来した彼の名は本多忠勝。
徳川に過ぎたる者の、戦国最強と謳われる猛者だ。
傷一つすら負うことが無いと言われる彼は、かの織田信長や、この城の総大将である秀吉から一目置かれている。
家康が少年であった頃から遣え、青年へと成長した彼の良き理解者の一人である。

忠勝は家康に応えるように、甲高い機械音を奏でる。
彼から立ち上る煙の数々が、戦国最強の威圧を放っていた。
忠勝は家康の言葉に対し、反応を示した様だが、それは只音を漏らしただけ。
しかし、家康には忠勝が何を言いたいのか、何を示したいのかが手に取る様に分かるらしい。
忠勝の放った金属音を聴くなり、嬉しそうに微笑むと、手慣れた動きで忠勝の背に乗る。
家康が飛び乗った事を確認すると、忠勝のバックパックから覗く筒は青い炎を吹き上げ、家康を乗せた巨体は空へと舞う。

家臣は只、その二人を見続けていた。


家康から一切の躊躇は消えた。
忠勝の背に仁王立ちで乗り、頬を掠める風を感じながら家康は決意をひたすらに固めていた。
揺るがない決意を、只ひたすらに固め続けた。
二度と、忘れる事のない誓いを、

「ワシはあの二人を信じる」

そして、証明する。
絶望しか知らぬ兄弟に、繋がりの素晴らしさを伝えて見せる。

三成------重成-----

ワシはもう迷わない。
お前たちの絶望を、打ち砕いて見せる。







忠勝のブースターは、周りとの温度差が激しいらしく、陽炎を作っていた。
地上で走るよりも更に早く、雲を切りながら小田原を目指す。
背に立つ者は奥底で、未だ何も始まっていない事を祈りながら・・・・悠然と前だけを見据え続けた。








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