ある凶王の兄弟の話


□したながの消失
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豊臣が天下を掌握し、幾日が過ぎた時に、それは起こった。


「家康殿が消えた!?」


徳川軍が、突如として大阪城から姿を消した。
それは本当に唐突で、城を一晩見張っていた足軽でさえ徳川軍が城内で蠢く様子を誰一人として見てもいないし、聞いてもいなかった。
まさに、消えたとしか形容の仕様が無い。

大阪城を巡る話題は、そのことで持ち切りだった。
広い城の何処にいても、必ず耳に入る話。
城主や豊臣の人間にとって、徳川軍という戦力が消えた事による利点は皆無なのだ。
これを重大と考えない傘下の人間は居なかった。






文禄元年、
空は薄い雲の掛かった快晴、乾燥した天気である。
大阪城には金属のぶつかる音が響いていた。
乾いた空に木霊するは、鳥の囀り、人間の掛け声、そして大きな金属音。
先程から、そのような無機質な音が虚空を占拠していた。


「そのような声を出さずとも聞こえていますよ」


重成は縁に居た。
金属音、掛け声が響いているのは、重成が前にする空間からだった。
日の光が差し込む、南を向いた縁である。
目の前では、三成が兵の鍛練をしていた。
本物の刀を使ってはいるものの、勿論踏み込みはいつもより甘い物だ。
重成の眼は目の前の鍛練の様子に向けられていなかった。
彼の眼差しは己の持つ刀に注がれている。
重成は鍛練を差し置き、刀の手入れをしていた。
打粉を付けては拭う、徒然と続けられているのはそれだけの簡単な作業。
彼の背後には、大きな声を出したと思しき家臣が額に汗を滲ませていた。


「は・・・っ。失礼しました・・・!しかしそれは一大事にござります!今すぐにでも兵に探させに・・・」

「いえ、その必要はありません」


刀の鎺元(はばきもと)から上へ上へと、拭いを滑らせながら言う。
勿論その視線は刀に向けられていて、家臣など視野の端にも無い。
それもその筈、姿勢は縁の外に向いていた。
話をしている家臣から見えるのは、重成の背に、彼の持つ刀だけだ。
面と向かって話をしているというには、些か物足りない対話をしていた。


「下手に秀吉様の御許から兵を削ってはなりません。地形の把握は兵よりも集落の民の方が優れているでしょう。家康様の詮索は彼らにまかせましょう」


至極冷静な口調だった。
刀身に再び打粉をかけながら重成は言う。
家臣は重成の背に向かって、一層跪いた。
畳を滑る微かな音は鍛練の様子から生じる金属音にかき消される。


「はっ。しっ・・・しかしながらそれでは多くの時間が掛かりましょうぞ!」

「構いません。向こうから戻ってくるという可能性もあります」


重成の刀は眩しい光を反射する。


「ご不満とあらば、今日暮れ六つに私が探しに参りましょう。小姓一人の眼が離れた所で支障はありませんし、地を駆けるのは慣れています」

「しかし、それでは兵に探させに行かれた方が・・・!」


家臣が顔を上げる。
勿論重成は背を向けたままだった。


「いえ、私一人の眼と兵何百人の目は視野が異なります。敵襲があったとしても兄上が居ますので、」


重成は顔を傾け、横目に家臣の姿を捉える。


「何かご不満があらば、申して下さい」


突如としてぶつかった視線に家臣は驚く。
家臣は目を見開かせ、再び跪く。


「滅相も無い!」


家臣の跪いた様子を見ると、何をするでなく、視線を刀に戻した。


「承知致しました。他の者にも伝えておく故に、これにて聊爾(りょうじ)、」


家臣は立ち上がり、障子の奥へと姿を消す。
重成はその様子を見取る所か、返事さえしなかった。

打ち粉を拭い、油を薄く含んだ紙で刀を拭いた後、磨きの掛かった刀身を見た。


「・・・・・・」


ふと、刀身に映った自分と視線が合う。
それは確かに"自分の姿"だった。


「・・・・・・」


自分ではない自分を思い出した。
家康の行動に、感銘を受けた己の姿。
しかし、今考えてみれば、自分が家康の何に感銘を受けたのか忘れてしまっていた。
酷く驚いた事柄は覚えているのに、只それだけが思い出せないでいた。
しかし、逆に脳裏に焼き付いた事もあった。
"自分ではない自分"が放った言葉。
それだけは嫌に不自然な程鮮明に覚えていた。

私が間違っていたのか?

今となっては理解出来ない言葉だった。
理解出来ないだけでなく、疑問さえ湧いてくる。
私の何が間違っている?
秀吉様の御為、秀吉様の天下の為、そのことを躊躇った事も躊躇うつもりも無い。
全てを君主に捧げる私の何が間違っている。

否定し、己を正当化する事しか出来なかった。
否定を続けていれば、内心はこれまでに無い程揺らぐ。
何に揺らいでいるのか分からない。
何故揺らいでいるのか分からない。


「・・・・・・」


思考がここまで行き着けば、重成を襲い来る感情があった。

それは他でもない、純粋な『恐怖』

疑問の答えに対する恐怖だった。
あの日、家康に抱いた物と同じ感情だった。

今抱く疑問の答えを理解してしまえば、私は一体どうなってしまうんだ?
あの時に家康様を恐れたのは、何故だ?


「・・・・・・・」


光を反射する刃渡に、目を細める。

その時、一層強い金属音が重成の耳殻を劈いた。









    
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