ある凶王の兄弟の話


□(下)
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「重成君・・・・!?」


己から吹き上がる、紅色。
鈍色の世界を塗り潰す見慣れた色。
傷を抉るように深々と刺さってゆく関節剣の刀身が、一層に重成から血を奪う。
派手に飛び散る紅は、吹き上げる本人の頬や、関節剣を操る半兵衛にさえ付着した。
口の端から血を溢しながら、愕然とした表情で己を見詰める黒を纏った軍師。
固まった表情のまま、体の軸を失う小姓。
自分でも理解出来ないような、短慮な行動だった。

君主を遮ってしまったのか

それを自覚する度よろめく足が重くなるのを感じた。
己に言い訳する事しか出来なかった。
しかし、無様に倒れる事なんて己の矜持が許さない。
それにどんな状況であれ、君主を前にしているのだ。
力強く地面を踏み締め、よろめいた身体を無理に安定させた。

斬撃を受けたのは左肩だった。
重成は即座に止血しようと、右手に持った刀を捨てて肩の傷口を押さえた。
だが傷口を押さえる彼の表情に、何一つ歪みは無かった。
息遣いの一つすら、乱さない。
まるで、痛みを感じていないとでも言うような表情で、重成は言葉を綴った。


「平常を失ってはなりません半兵衛様。貴方様を失う訳には参りません」

しかし、その声の意味を理解していられるほどの余裕も、半兵衛には無かった。


「あ・・・・・あぁ・・・・・・ぁ・・・」


舌が絡まった言葉。
意味を成さない音を漏らすだけだった。
白から溢れる紅を目にする度、
そして服や顔に付いた生暖かい生き血の温度を感じる度、半兵衛は下火になる。
半兵衛自身も傷ついた重成を見る事は初めてだった。
自分が、そのような小姓を傷付けてしまったことを酷く後悔していたのだ。
追い打ちをかけるように冷静さを失っていたことへの後悔さえも込み上げてくる。
足をガクガクと震わせ、時に後退り、立っていることもままならないといった様子だった。
やがて半兵衛は膝を付く。
愕然を表情に貼り付けたまま、重成から目を逸らせずに居た。
重成は崩れ落ちる桔梗色に眼を細めた。


「貴方様が轍を踏まれては私達に先は御座いません」

「・・・・・・」


軍師は酷く混乱し切り、その身体さえもとうに限界を超えていたらしい。
やがて、その華奢な身体のありとあらゆる力がまるで尽きたかのように抜け、支柱を失った彼は意識さえも失った。
力無く崩れる半兵衛の躯体を、重成は岩盤に倒れる前に受け止めた。
塞がった手は傷口から離される。
重成は、切り傷による派手な出血にも関わらず、半兵衛を支える事だけを優先した。
己は最早、意思の範疇に無かった。

倒れ込んだ半兵衛の顔色は、死人とも取れる程色合いが悪い物だった。
彼は己を殺してまで、復讐に臨もうとしたのだろう。
それ程までに、彼にとって太閤という存在は大きいのだ。

勿論、その事実は重成とて同じだ。
彼の胸の内は、君主の一人を失った喪失感を、苦しむ軍師を救えなかった寂寞感で押し潰されそうだった。
だが、何一つ表面にそれが滲む事は無かった。
自分でも不自然だと思う程、表情は乾いていた。

私は本当に悲しんでいるのか・・・?

答えは何処にも、何も無かった。
自分の兄弟のように、ひたすら激情に動かされる事は無い。
朧気に沸き上がる激情も、思考より先走る事は無い。
冷静。
それが行住坐臥になっている。
悲しみを覚えても悲しむ事が出来ない。
また寂寞を感じても求める事が出来ない。
少なくとも重成はそのような人間だった。



「重成・・・」


そんな彼を背後で呼ぶ、金色の影。
紅を帯びた純白は振り返らなかった。


「・・・・徳川家康・・・・」



何処か震えているようなか細い声。
だが、金色の名を呼ぶ彼の声に、何一つ感情は含まれていなかった。
名前を呼ぶ以上の意味を何一つ成さない声。

だが、家康にはそれで十分だった。
彼の情緒は、振り返らないその態度が示していた。
家康はゆっくりと瞬きをした。
瞼の合間から垣間見える紅鬱金。
曇りの無い、覚悟に燃える色だった。
やがて口を開く。
君主を抱えたまま背を向ける彼に、言った。


「ワシの決意はもう揺るがない。此の世に平穏を齎(もたら)すその日まで、誰にも邪魔はさせない」


青年は言った。
悲しめない白に、


「重成・・・例えお前であってもだ」

「・・・・・」


振り返らない。
声も上げない。
肩を中心に、重成の白い羽織を染め行く紅。
降り頻る雨はその白銀の御髪をも虚しく濡らした。




時間が止まってしまったような空間。

それを一閃したのは甲高い咆哮だった。








       
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