ある凶王の兄弟の話


□傷跡
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止まない雨。
曇天は垂れるように空を黒く覆い尽くす。
大粒の雨は重苦しい空気を放ちながら止まる気配さえ見せない。
垂れ込むような雲はその昔、一人の拳によって穿たれた。
だが、空が穿たれる事はもう無い。
かつて空を割った一人の覇王の力強い拳は、偉業を無くした。

同時に豊臣は覇王を、亡くした。

太閤という要を失った豊臣軍は、あれから逃げるように大阪城へと帰還せざるを得なかった。
勝ちを信じた思いは、太閤が死んだ時点で玉砕された。
その瞬間から、只多くの犠牲を払った負け戦となったのだ。
屈辱的な戦事態が、勝利し続けてきた軍にとって初めてだった。
背中を晒して、誰もが逃げ惑う戦場。
退路は阻む軍勢が防ぎ、何処にも無かった。
故に敗けと分かった後も、数多くの武士が犠牲となった。
徳川は、二度とかつてのような横暴が振るえぬような傷跡を残して去ったのだ。
半兵衛や、その小姓にさえ・・・----


その戦が終わりを迎えて早朝。
多くの負傷者の呻きが城を埋め尽くす。
勿論、力と要が消えた豊臣軍は策を巡らせる事さえままならなかった。
唯一生き残った軍師は悪化を辿る病に蝕まれ、話せるような状態ではない。
また、太閤が居ない現実を受け止め切れていないらしく、酷く錯乱しているらしい。
真面に軍医の治療も捗らない。
それは大阪城にいる誰もが耳にした訃報だった。

「・・・・・・」

身動きを取れないのは、軍師の小姓、 三成や重成とて同じであった。
三成は君主の命令無しでは行動を起こすことはない。これまで一人の覇王に固執してきた三成が、自ら自発的な行動を取る確率は限りなく零に近い。
重成も同じ境遇だった。
それに、彼は左肩を酷く負傷していて腕が上がらない。
当然銃を扱える腕ではない。
握り拳さえ曖昧な感覚のせいで作れなかった。

それは恐れていた事の筈だった。
弱者になることを誰よりも恐れていた。
なのに彼は、負傷した事実を素直に受け入れる事が出来てしまっていた。
それは君主によって傷つけられたせいなのか、
或いは尽くす君主が一人、居なくなったせいなのか、
分からなかった。

「・・・・・弱りました」

ぽつりと、重成は呟いた。
それが己の内の事を言ったのか、傷を見て言ったのか、自分でも分からなかった。
言葉を聞いてか、彼の後ろに居る女中が一人、口を開く。

「・・・これだけの深手でありながら、良く御存命で・・・」

「大袈裟ですよ。驚嘆するような傷でもありません」

大阪城の、とある一室。
重成は、躯幹の衣を片肌脱ぎしたまま女中の手当てを受けていた。
いつも纏っている羽織や、鎖籠手も全て外していた。

軍医は皆、兵を治療したり、軍師を診る事で手一杯で、その他は全くの手付かずだった。
勿論、 数刻前には重成の傷を診ると、名乗りを上げた軍医も居た。
しかし重成は悉く、彼等からの親切を断った。
彼は頑なに言った。

今は半兵衛様と、重症の兵を優先しなさい。救える命を多く救うのが軍医でしょう。

手が足りない状況下での治療を拒んだ。
誰かを優先しろと 重成は言った。
当然反駁する者も居たが、彼が揺らぐ事は有り得なかった。
そんな重成は一室で一人、自分の血水を拭っていた。
見兼ねた女中が一人、部屋へとやってきて、『看病をさせてくれ』と言ったのだ。
それも、彼女は女中の中でも位の高い上女中故に、重成は断るに断れなかった。

その数分後が、現在に至る。
雲のせいで光が遮られ、部屋は嫌に薄暗い。
いつも日の光が差し込む窓辺からは、雨が地に落ちる連続した音しか聞こえてこない。
物虚ろげに重成は窓辺に目を向ける。
彼は女中に傷を弄られても、相も変わらず痛みさえ感じていないとでも言いたげな態度は変わらなかった。
女中は包帯を巻く手を止めないまま、その態度に首を捻らせた。

「痛くないのですか?」

単純で、とても素朴な疑問だった。
重成は緩く視線を傾ける。
何処か気だるげな視線。
感情が籠っていないせいであろうか。

「痛みを嘆いた所でどうにもなりません」

否定。
彼は、心理的な根本を真っ向から否定していた。
痛みに慣れる人間は存在しない。
痛みを恐れるのは意思とは掛け離れた、本能の域の問題だ。
しかし重成は、痛みを感じていながらも、それを伝える術を忘れていた。
嘆こうと、見て見ぬ振りを繰り返されている内に、怪我による苦痛に嘆く行為をいつしかやめてしまったのだ。
だが、彼の過去の苦痛は、自身の身体が鮮明に物語っていた。

「・・・とても・・・古傷の多い身体なのですね」

とても逞しいとは言い難い、華奢な輪郭
刀を扱っているせいか、余分な肉を省いた筋肉質な体付き。
しかし、四肢に刻まれた、かつて腕が腕として機能しない程ボロボロであった事が伺える傷跡の数。
その生々しい跡が腕だけに収まり切らずに、重成の上半身を埋め尽くしていた。
切り跡、焼け跡、抉れた跡、そして打撲により色が変色した跡。
どれもかれもが、彼女の目を釘付けにした。
重成はまじまじと傷を見詰める女中から眼を逸らし、小さな嘆息をした。

「・・・・処置、気が済みましたか?」

「え?」

唐突に投げ掛けられた質問に、思わず女中は素っ頓狂な声を上げてしまう。

「あぁ、はい。軍医よりは拙劣ですが、大体処置は終わりました」

「そうですか」

女中は、いつの間にか止まっていた作業を進め、慌てて包帯を結んだ。
彼女の手が離れた事を確認するや否や、すぐに重成は肌を隠すかのように小袖を羽織った。
やがて空ろな瞳を先の空に向けたまま言葉を紡いだ。

「半兵衛様の容体は如何ですか?」

「はい、安定してはいますが、とても良いと言える状態では・・・」

「・・・分かりました。情報感謝します」

上女中の仕事の内には、城主も含まれている事を重成は知っていた。
彼の予想通り彼女は知っていたものの、突き付けられた現実は今尚心に響いた。
それでも心中を滲ませようとしない重成に、再び首を捻る女中。
重成の存在は、彼女のような常人に到底理解出来る物では無いのだ。

「貴方はあの方の小姓なのに、慌てないのですね」

指摘されようと、重成は冷徹な態度を変えない。
空に向けた視線をそのままに暫く眺めると、まるで思い出したかのように立ち上がるだけだった。
立ち上がると共に、彼は独り言のように、言った。

「失意泰然、得意淡然」

「?」

頭に疑問符を浮かべる女中に振り返ると、重成は更に続けた。

「私が父から教わった言葉です。何があろうと慌てず時節を持ち、また目の前の好機に奢らず慎みを持つべきだと言う意味が、この言葉には含まれています。今がその通りの時期なのではないのでしょうか」

言い終われば、女中の反応も待たずに重成は障子に手を掛けた。

「どちらへ?」

「半兵衛様の御許です。あの方には話したい事が山程御座います」

「その傷の事ですか?」

「まさか、」

愚問ですね、とでも言いたげな表情で重成は肩を竦ませる。

「これからの方針です。太閤を亡くし、今や豊臣は弱卒してしまった。それに雑賀衆との契約の話も済んでいない。これ以上再契約か、契約かを白黒させなくてはあの傭兵部隊の反駁を買うのも時間の問題になるでしょう。最悪の状況を避ける為にも、半兵衛様が動けないとあらば奥の手を使うしか無い」

淡々と、彼は事実のみを口にする。
その事実に一切本人の感情は含まれていなかった。
何一つ焦燥していなかった。
先程彼が言った言葉のせいなのか、話を聞く女中さえ、どこか客観的に捉えていた。

「奥の手、ですか・・・」

「・・・では、失礼します」

重成は障子の奥に歩を進めた。
掛ける言葉も無く重成の背を見送る女中。
しかし、重成は唐突に足を止めた。
そして小さく一礼しながら、付け加えるように言う。

「治療、ありがとうごさいました」













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