ある凶王の兄弟の話
□詭計智将
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その人物を表現するならば『静寂』という言葉が近いのだろう。
静寂の奥でこちらを見定めるような、眼力のみで従わせるかのような重圧を感じる。
翠を帯びた烏帽子形兜に腕が隠れる程長い当世袖。家紋を模した飾に鳩尾板(きゅうびいた)のみが取り付けられている。
腹部に鎧は付けておらず、そのまま小袖を着ている。胴の鎧は特に重い故であろうか、軽装備とも重装備とも取れない。
一際目を引くその人物は、幾人もの兵を引き連れて現れた。
言わずもがな、その者こそが謀神と謳われる策略者、毛利元就である。
「済まぬな、余計な枷が馬の足を鈍らせておった故」
彼にそう言った吉継はちらりと官兵衛に視線をやった。
視線に気付いた官兵衛は不自由な手で自分を指差しながら「小生?」と素っ頓狂な声を上げている。
しかし元就は官兵衛に見向きもせずに鼻を鳴らした。
その視線すら動かさない態度から、完全に元就の中から官兵衛が抹消されている事が見て取れる。
「我自ら赴いてやったのだ。言いたい事は単刀直入に申せ」
何も調子を変えないままで冷たく言い放つ。
元就は単調に話しているだけなのに、存在から伝わる覇気はその場の者を自然と萎縮させる。
形容するとなれば、それは『冷たき光』
威風堂々とした太陽でありながら、それが発する光は余りにも冷たく、凍てつくように人々の身体を強張らせる。
たった一人の人間でありながら、何と強い印象を持った者なのだろうか。
だが、重成はそんな彼に対して表情を崩す所か萎縮もしなかった。
彼が肩に力を入れてしまうのは、たった一人の君主と、軍師の前でのみ。
厳粛な空気の中でも己は寛げるのだという事実に、自分でも驚く。
しかしそれは身体的な重成の面であり、決別している精神面は全く異なる。
実を言えば彼の脳裏は、初めて目にする謀神に圧倒されていた。
百聞は一見にしかずという様に、文面や対話では伝わらない威圧を元就から感じていた。
ただその緊張が態度に現れていない。
それだけなのだった。
ふと吉継に眼を向ければ、彼は普段と何食わぬ顔でいた。
口調や仕草すらも、いつもと何ら変わらない。
緊張している素振りも無い。
吉継にとって気を濾す事は他縁の感覚なのだろうか。
吉継の掠れた声が意味を刻もうとした時だった。
「従属しろ」
確かに、それは元就の言うとおり単刀直入な言葉だった、
その上何かを言いかけた吉継の上に被せられた横暴な発言。
吉継が何を言おうとしていたのか、今となっては何も分からない。
吉継の言葉を遮った者。
それは勿論、三成であった。
元就の冷たく、射抜くような視線が吉継から三成に向けられる。
しかし臆することなく、逆に刀を向けて抑止力をかけるように、三成は更に続けた。
「貴様に拒否権は無い」
流れが変わったのが感覚で分かった。氷面のように凍りついた空気に、ヒビ割れが入ったような。
目上の者に対し、無礼を働くそれと同じような感覚だ。
両軍の兵士が騒めく。耳障りな雑音。
ざわつく兵を差し置き、元就は目を細めた。
目を細めたというよりは、顔を顰めたといった方が正しいのかもしれない。
「無礼者よ、口を慎むがいい」
先に吉継が言った様に、此度は協定を結ぶ為にこの地へ参ったのだ。
上下のある従属とは根本的に意味が異なる。
「すまぬな毛利、こういう奴のなのだ」
棘のある三成の台詞を抱擁するかのような言葉。
しかし、三成は下心があってこのような言葉を使っているのではない。
彼は本気だ。
本気で元就を従属させようとしている。
瞳を見ればすぐに分かる。
何の曇りも無い眼だ。
「答えを聞かせろ毛利元就。家康の名を出せば縊り殺す」
言葉を慎む気配さえ見せない三成。
流石にこの不用意な発言に対しては、元就の兵が弓を引いた。
元就の合図も無しに、独りでに兵達が三成に向かって引いたのだ。
大将を心から慕い、洗練されている兵士達である事が見て取れる。一人一人が力を持てど命令なくば動じない石田軍とは異なる。その証拠に、自軍の大将が弓を引かれようと応戦の構えを取る者は誰一人として居ない。
ただ、敵軍の行動が元就を敬う余りの行動なのか、怯える余りの行動なのかは分からなかったが。
「…最初から貴様にも徳川にも、さしたる興味はない」
元就が一石を投じるように重い口を開けた。
「我が望むは中国の安泰。それさえ適えば貴様が勝とうが徳川が勝とうが、どちらでもよい。誰が何を持ちかけようと、我は誰にも従わぬ」
「貴様の意見は聞いていない」
それはやけに唸るような調子で放たれた台詞。
重成が気付いた時には、三成は既に元就に飛び掛かっていた。
「従属しろと、そう言ったのだ!」
三成が刀の柄に手を掛ける。
その瞬間、弓を引いていた兵の放った矢が三成に向かって飛来し始めた。
空を斬る独特の音が静寂に谺す。
空中に矢が飛び交おうとも、三成の足は止まらない。
矢は三成に悉く切り刻まれ、一つ残らず原型を失った。
その暴挙に流石の吉継も驚嘆の声を上げる。
吉継にとってもこの行動は誤算だったのだろう。
矢を掻い潜り、三成が元就に斬りかかる。
その全てが一瞬だった。
しかし、元就は三成の一撃を己の得物で弾いた。
それは美しい円。巨大な輪刀。
三成の勢い余る居合を、元就は輪刀を持った片手で防いだのだ。
だが見るからに華奢な元就が、手練れでさえ止められない三成の居合を真正面から、更に片手だけで受け止められる訳がない。
元就が狙っていたのは直に三成の一撃を受け止める事ではなく、三成の居合を流す事だった。
「ぐあぁぁああああぁぁあ!!!?」
輪刀を滑るように捌かれた三成の勢い余った一撃は、元就の隣に居た毛利軍の兵に直撃した。
その者は鎧をも貫く一撃を前触れも無く受け、派手な血飛沫を散らしながら仰臥した。
ピクリとも動かなくなる兵。完全に即死である。
三成はすぐに刀を納刀し、元就から距離を置いた。
三成は両隣を兵士に囲われながらも、居合を態と横に逸らす選択をした元就の行動に驚きを隠せていないのは明白だった。
そんな三成に輪刀を向けながら、元就は言う。
「雑兵など所詮は捨て駒だ」
これが、日ノ本冷酷な男だと謳われる所以。
己に付き従い、身を挺して大将を守る兵士に対し、感情の一つも持ち合わせていない。
兵士に限られた事ではない。動くガラクタのように無機質に、そしてぞんざいに人間を扱っている。
人を人と認識する者であれば、両隣に兵が控える中で攻撃を受け流したりはしない。
弱者を護るのは力ある婆娑羅者が自然と選択する行動であり、彼等こそ力ある者が守るべき戦力の筈だった。
しかし元就は違う。
失った戦力を補えば良いと考えている。
役立たずは壁にさえなれば良いと思っている。
恐ろしいまでの、冷酷無残を形にしたような人物である。
「貴様の狂犬にも呆れたものだ。躾でもしてやればどうだ」
それは吉継に向けて問われたのだろう。
しかし吉継は黙秘したまま答えない。
吉継がどう思っているかは分からないが、重成は目に余る暴挙に対し、元就と同じく呆れ返っていた。
元就は冷たい声で続ける。
「石田…いや、世に知れ渡る貴様の名は異なる。今や口を揃えて、日ノ本の者は貴様の事をこう呼んでおる」
元就は張り詰めた視線を三成に送りながら少し間を置くと、冷酷なままで言い放った。
「凶王三成、とな」
冷たい調子で告げられたその言葉は、声の大きさ以上に言葉の力を秘めている。
「徳川に裏切られ、覇王を失った暁にその軍師まで守れなかった者、石田三成。貴様は今やあらゆる不幸を招く元凶だと囁かれておる」
三成は、己の風評を真正面から耳にする事が滅多にない。
重成の位置からは前方にいる三成の表情は伺えなかった。確実なのは、俯いているということだけだった。先程三成に命を奪われた毛利軍の兵を見つめているのだろう。
三成に向けられて発せられた元就の発言を聞いて、重成は後ろめたい気分に陥っていた。元就が口にした風評が、己に向けられて言われたように思えたからだ。
徳川に裏切られた裏には、家康に余計な口出しをした自分がある。
覇王を失った裏には、その仇にさえ手が出せなかった自分がある。
軍師を守れなかった三成の裏には、軍師を守れなかった自分がある。
示唆されたその事実が、胸元を抉るように突き刺さる。
「それがどうした」
暗闇に落ちる重成の意思に焼き付く三成の声があった。
「貴様らにどう思われようが私の知った事ではない」
そのたった一言に、救われた気がした。
三成は顔を上げたかと思えば元就に刀の頭を向ける。
そしてそのまま明確に言い放った。
「もう一度言う。従属しろ、毛利元就」
三成は何度も繰り返し同じ事を言うのを嫌う。
僅かな憤怒の混じった声であったのは誰もが理解しているだろう。
しかし、元就の返答は、更に三成を昂らせる事になる