ある凶王の兄弟の話2

□蠢く錫杖
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夜の闇は益々深くなっている。
月の光さえ遮る森林の中に身を置けば、暗く、出口の存在しない闇の中を彷徨っているかのような気分になる。
前も後ろも同じ景色で、辿ってきた道程は曖昧だった。
常人よりも夜目が利く重成は、木々に囲まれた暗い道を凛とした足取りで進んでいた。
人工的な石垣の山を外れ、足場の悪い獣道を歩いた。
足元を照らす物は携えていない。
持っているものは、いつも常用している藤色を基とした刀のみ。
重成が歩く度に甲冑が掠れて音を出す。自分はそれを雑音とも認識しなくなった。

空を見上げても月の光は林が遮っている。
この道を選んだことに理由はない。一晩他者の城でジっとしているのは気分が落ち着かなかっただけだ。
獣道を進んでいるのは居城を見張る秀秋の兵士の目を掻い潜るため。別段見つけられたとて困る事は何もないのだが。
存在を知られたくない。そんな卑屈でつまらない理由が己の根本にあるのだろう。

暫く獣道を沿って進むと、河川に行き着く。重成は河川の前で足を止めた。
開拓されたかのように、そこだけ雑木林で覆われていない。美しく月の光が射し込んでいる。
穏やかな水の揺らめきは揺蕩う月明かりを称える。澄んだ水だ。浅くはあるが、底が夜の光でも見えている。
そよそよと水の流れる音が聴こえる。
水面に映った月を眺めた。

「…煩悩は身にそえる影、さらんとすれどもさらず、菩提は水にうかべる月、とらんとすれどもとられず」

水面の月に手を翳し、月を掴むかのように掌を固く握りしめる。
月は拳によって重成の死角となる。

誰かから昔話を聞かされた事がある。
或いは自分で書を開いた時に見つけたのかもしれない。
その昔、水に浮かんだ月を手に入れようとした猿がいた。
その猿は月を掴もうと水面に手を伸ばし、誤って足を滑らせて水の底に沈んてしまった。
この猿は、己の欲深さのために水面へ落ちた。
どれだけ美しく目を奪う月であろうと、水面の月はまやかし。目に見えるだけでそこには存在しない『鏡花水月』
目の前の欲に駆られて行き着いた先には何もない。あるのは、冷たい水の温度。
思い起こしても滑稽な話だ。

「…!」

重成の耳は、流水音以外の音を拾った。顔を上げ、音が聞こえた場所に眼を向ける。
声だ。
断末魔のような悲痛な声。
しかし、断末魔と認知するには短い声だった。
奇妙、それでいて足が少し竦んだ。
音源はそう遠くはない。
元が小さいと思われる声を拾えたのが何よりの証拠だ。

「…何だ…?」

こちらから見えぬ位置で何が起こっているのか、重成には情報がない。
精々悲鳴が聞こえただけだ。
その時、見ていた木々の隙間から鴉が飛び出してきた。
羽根を撒き散らして飛び回る。
数える事も憚られるような数だった。
鴉達は騒がしい声で鳴きながら重成の上を横切った。
ふと、そこで気付く。
鴉が運んできた鉄の匂い。
血の匂いだ。
死の幽香を運ぶ気味の悪い風
呼応するように全身に震えが走る。

気が付けば重成は、河川を飛び越えてがむしゃらに走っていた。
何故このような周囲に立ち込める殺意の香気に気付けなかったのだろう。
いや、気付けなかったのではない。出ていなかったのだ。
この香気は声が聞こえた瞬間に現れた。

俊足を活かして走り続けた。
この拭いきれない焦燥の正体を知る為に。
森の中に人影が見えたのは、走り続けて間もなかった。
思った通り、そう遠くはない場所で起きていたのだ。

「何をしている」

足を止めると同時に、開口一番に切り出す。
そこは、人が進んだ轍の縁だった。
大きく開いた道に月の光が差し込む。
先程まで暗い道を進んでいた重成にとっては眩しい程の光に感じた。

「!」

眼に飛び込んできたのは三人の人影。
三人ではない、一人だ。
確かに、目に入ったのは三人だった。
だが、その内二人は既に死んでいたのだ。
見るも無残な姿で

眼前に倒れている者はどこかの足軽だった。
一人は、バッサリと大きな刃物で背中を切り裂かれていた。
甲冑を纏っているようだが、その甲冑ごと一振りで斬られている。
もう一人は更に無残な姿だった。
上半身と下半身が、真っ二つに分かれていた。
恐らくこの『人だったもの』が、重成が耳にした声の主だろう。
悲鳴を上げようとした矢先に絶命したとしか思えない。
鉄の匂いを撒き散らす真っ赤な血が、倒れ伏す二人を中心に地面を染めている。
頭痛がするような、人の中身の腥い臭いが襲い掛かってくる。
通常の人間なら気を違えてしまうような光景が広がっていた。

重成は目を見開いた。
驚いているのは眼下に死体があるからではない。その殺し方だ。
二人とも一太刀で命を奪われている。熟練した技術があろうと人を両断する為には相当の力が必要だ。
重成とて並外れた集中力と殺意がなければ容易に出来る事ではない。
この二人を殺めたと思われる人物が、倒れた二人の後ろにいた。
それは重成の知る人物だった。
己が鎌を血で真っ赤に染め上げた人は、重成を見るなり轡の奥の口角を歪めた。

「おや、これはこれは重成様。素晴らしい再会ですね」

「…あなたは…!」

重成は聳立する影を睨み付け、素早く刀の柄に手を掛けて構えた。
そこにいた人間は大きな鎌を二つ携え、死人を思わせる白く長い髪を垂らした天海だった。
     
          
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