ある凶王の兄弟の話2

□帳の蝶
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「昨夜の月は見事な下弦だった」

譫言のように言葉を刻んだ。
相変わらずその表情には何の感情も宿っていない。
ただ瞳の光彩が、空の色を反射している。

「星の瞬きさえ眼に映らない下弦の月だった。あんな月を目の当たりにしたのは、一体いつ振りなのだろうか」

昨夜の喧騒を忘れさせんとばかりに、朝は雲を転々と残した晴天を示していた。
西の空には下弦の月がうっすらと形だけを残して存在している。

時刻は朝、未の刻。
あの夜から一夜明けてから長くは経たない。
縁側で風を感じながら思いを馳せていた。
眩しい日の光が縁に射し込む。
涼しげな風が木の葉を優しく撫で、カサカサと揺れている
名も知らぬ小さな花に蝶が止まっている。
暖かな陽気が昨夜の闇を忘れさせる所か、消していくかのようだ。
まるで全てが欺瞞のように感じた。

「やれ、やけに相にも合わず上機嫌よな」

隣で吉継がぼやいた。
重成は吉継の一言を否定しない。
同時に肯定もしなかった。

実際には上機嫌の皮を被っていた。
朝がやってきてから周囲に昨夜の事を悟られまい、聞かれまいと、自分を偽り続けている。
ズタズタに裂けた羽織を誂え直して欲しいと女中に依頼した時は流石に怪しまれはしたものの、ただ野武士を追い払うのに苦労したと嘘を吐けば誰もが信じてくれた。
嘘は元来から得意だ。嘘を吐いているという罪悪感すら眼に滲まない。
故に、現在はいつもの装いに羽織がないだけの格好をしている。
唯一色彩を持つ羽織を脱いでしまえば、驚く程に己は無彩色なものだ。
改めてそう思った。

「昨夜に何かあったのだろう。顔に面々と書いておる」

「はて、刑部にしか見えない文字だ」

「互いにしか見えぬ文字が面に映るはお互い様よ、オタガイサマ」

「不思議なものだ。私達は互いの内を知らないのに、刑部が私を見抜けるように、刑部の嘘は分かる」

「買い被りよ。我とて主の全てを謀れる訳ではなき故」

「これは果たして合縁奇縁なのだろうか」

「然り、シカリ」

「縁は見てわからず。然るを屋舗の腰掛にて。一寸見た計で縁談沙汰」

「誠その通りよな。主との出会いが果たして『奇縁』なのか」

「必然か奇跡かは、私達の決める事だ」

下らない話に花を咲かせる。
情報交換ではなく、ただ当てもない答えを探すだけの意味のない会話。
吉継は重成がこのような話を出来る数少ない一人である。

暖かい風が頬を撫でた。
過ぎ行く風が重成の髪を小さく揺らした。

「私は仮に貴様との邂逅が、この身を不幸に糾う『危縁』だとしても後悔しない」

「何故(なにゆえ)に?」

「貴様が兄上の良き理解者だからだ」

「はて、かような理由では腑に落ちぬな」

「私を理解出来るのは私一人で充分。しかし兄上には理解者が必要だ。狂犬に指示を与える手綱が」

「ヒヒッ…三成を恐れぬ比喩よな。主は血縁の為であれば、自分が不幸に沈もうと構わないとな…ヒィッ、ヒッヒッヒ」

「違う。兄上は理解者がいなければ真っ直ぐ歩けぬ程に未熟だと言ったのだ」

「理解者が主では事足りんか?」

重成は首を横に振った。

「私は理解出来でも同情は出来ない。私では駄目だ。兄上には貴様が必要なのだ」

「さよか、」

吉継の繃帯は先程からゆらゆらと揺れている。
風に靡いている動きではない。しかし吉継が不気味な雰囲気を纏っているのは今に限った事ではない。
この近寄り難い空気を纏ってこその吉継なのだ。随分前に慣れてしまったこの空気を自分が気に掛ける事もない。

「さりとて、我は安心した。未だ主が三成をそう思っているだけ、な」

重成は隣に座す吉継に視線を送った。包帯と兜の奥にある吉継の眼が細まった。
僅かな変化に気付けたのは元来から吉継を見続けたせいだろう。
兎眼がこちらを向く事はない。
顔を向けなければ視線を変えることさえ、もう吉継には不可能なのだ。
兎眼とは神経が麻痺する故に起きることなのだから。

「ぬしがいつまでその仮面を被っているのかは知らんが、たまには『ソレ』を外して三成の顔も覗いてみやれ」

「……」

重成は言葉を発さなかった。
吉継は構わず続ける。

「主が思う以上に、あやつは煢然な顔をしておる」

流石は三成の良き理解者。
重成には分かり得ぬ三成の一面さえ教えてくれる。
何も知らなかった訳ではない。重成は三成の表情を見る機会があまりないのだ。
向かい合っても眼を合わせるのは稀だ。
それとも、重成の深層心理が三成の表情を伺う事を拒んでいるのか。
重成自身にも分からない。
吉継はよく見ている。
三成だけでなく重成の事も、
でなければこんな事は決して言えない。
彼はいつも、重成や三成に他の者とは一歩近い位置から声を掛けてくる。これが苛立たしく感じる事があれば、心地よくも感じている。

重成は吉継を視線から離し、俯いて眼を閉じた。
そのまま、彼はフッと笑った。青空には似合わない、自虐的な造りを模していた。
瞼を少し持ち上げる。
その瞳は、目の前の光景を反射している。

「…彼奴にそうさせているのは私だろうから」

吉継は重成にゆっくりと顔を向けた。
彼の眼に、今の重成はどう映っているのか、
多くの重成の表情を知る吉継には滑稽に見えている事だろう。

「何故主は嘘を吐き続ける」

「さぁな」

「何故三成にあのような顔をさせておる」

「さぁな」

「何故主は諱を使い続ける」

「………」

重成は沈黙する。
吉継の口からその質問を聞かされるのは初めてだが、同じ質問なら三成から何度も聞かされた。
三成にはそれを聞かれても言えない訳があった。いや、答えた所で三成に理解出来るとは思えない。
だが今の相手は吉継だ。吉継には隠し通す理由もないだろう。

感嘆した。
一呼吸置くと重成は言った。

「自分を殺す為だ」

吉継は何も言わなかった。
彼の兎眼は重成をじっと見つめているだけだった。
今の言葉が吉継に何を考えさせているかは分からない。しかし吉継の考慮の全ては、重成が立ち入れる領域ではない。
その眼の奥で一体何を考えているのか想像も出来ない。

「…主は、哀れな男よ」

繃帯の奥で吉継は言う。
重成にはその言葉が複数の意味を含んで聞こえた。
自分を殺す憐れな姿。
他者を信じない哀れな姿。
その選択をした自分を嘲る言葉。
全てを指したかのような、そんな気がした。
しかし、特段不快な気分には陥らない。
同時にそれ以上を語るつもりもなかった。
吉継が重成を哀れと表そうと、それは相手の尺で測った自分の姿でしかない。

「そうか、」

特に感情を滲ませずに重成は言う。
吉継は生返事を聞き流したのち空に眼を向けた。
普段から屋内の陰に潜む吉継に青空は似合わない。
これだけ青い空の似合わない人間は珍しいのではないかと、そう思ってしまう程に。
そんな事はどうでもいい、
重成は一つ瞬きをした後にあぐみを掻いた姿勢を少し変えると、さて。と、話を切り替えた。

「これから先どう動くんだ。まだ西の方角には兵士も大勢残っている。今頃家康様は東の統治を固めている頃合いだろう。残された西を、石田はどう動かさんとする?」

「そう、主の思議通り悠長に座している刻は残されていない。故に、明日にでもここを立とうと思うておる」

「また西に向かうのか」

「いや、その逆よ」

重成は冗談のような口振りで言った。

「まさか、もう家康様に挑むつもりか」

「ヒヒヒッ…主の冗談もやっと笑えるようになったわ」

吉継は間を一つ置いた。

「西は毛利に任せる。我らは甲斐を目指す」

「甲斐だと」

重成は瞠目した。
知っている。甲斐は猛虎が如き軍略で有名な武田軍が統治する場所だ。
西に加わるに不足はないようには思えるのだが、問題は別にある。
勿論、西を毛利に任せる発言も問題大有りなのだが、それよりも気になるのは甲斐に行く為の足だ。

「ここから甲斐まで何里の距離があると思っている。甲斐に着く前に大勢が疲弊するぞ」

吉継は静かに頷いた。
そう、長すぎる道程は兵士の命を削る。
だからといって遠回りばかりして時間をかける訳にも行かない。備蓄だって無限ではないし、石田が移動に使う数日の時間を、徳川は同盟に使うかもしれない。
行動を誤れば確実にこちらは劣勢に追い込まれる。
大勢での移動には多くの危険も伴う。奇襲、天候、疫病、挙げ始めてしまえばキリがない。しかし、重成の言った事に頷いた辺り、吉継はその辺りを考慮に入れているらしい。

「その為の金吾よ」

その一言で、重成は少し納得出来てしまった。
成程、秀秋に兵糧を分けて貰うと、
仮にも他の軍の備蓄を当てに算段を積む所は流石に狡猾と言うか、太々しいというか、

「…秀秋様も、厄介な者に眼をつけられてしまったな」

背に腹は変えられない。私達は時を急いでいる。使えるものを使わなければ、後はない。

        
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