ある凶王の兄弟の話2

□野薊の棘
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遅い。
こんなにも自分の足が遅いと感じたのは豊臣の軍師に駆け寄ったあの時以来だ。
まさか、足が縺れているのか、
そんな簡単な事さえ理解するのに時間を有してしまった。
遅い、
遅い
もっと早く。
気が急く程に足が言うことを聞かない。
見るに絶えなかった。しかし、目の前の光景から眼を逸らす事がどうしても出来ない。
重力に引かれて輿から落下する吉継。その動きがやけにゆっくりと見える。
実際は一瞬。汗でふやけた脳裏が起こす時間の錯覚。
声を失い、
目的すら見失い、
ただ、今はそんな事どうだって良かった。
吉継を助ける、ただそれだけを望んだ。
手を伸ばし、必死に吉継を受け止めようと試みた。
しかし------

重成の伸ばした掌は、吉継に届くことなく空を切った。
遠い。
眼前で地面に吸い込まれるかのように落ちる吉継を、愕然と眺める。
駄目だ。
こんな一瞬は見るに堪えない。
柄にもなく悲鳴を上げそうになった、その時。

半壊の荷車から突如一人の若者が躍り出て、落下する吉継を受け止めた。
見るからに華奢な少年だ。甲冑を身に着けずに着物を着ている所から見ると軍医である事が推測される。
きっと彼も重成と同じく、倒れる吉継を見ているだけではいられなかったのだろう。

「重成様!刑部様はまだ息をしておられます!て、敵方から目を逸らしてはなりません!」

吉継を支える軍医の少年は、眼に恐怖を浮かべながらも必死に訴えかけた。
ここは戦場の真ん中だ。そんな所に防備も何もしていない軍医が飛び込んでは危険過ぎる。
まだ距離はあるというのに、徐々に重成の足は止まった。
ひたすら一点だけを目指して進んでいた足は、目的を失ったように速度を落とした。
果たしてこれは少年が現れた事に対する安心からなのか、躊躇からなのか、
だが今の重成は安堵も忠告も、全て右から左の状態だった。
放心。
重成の脳髄には、己の荒い呼吸音のみが反響する。
眼はただ、少年の腕の中で眼を閉じたまま動かない吉継に向けられたままだ。
頭の中で思慮が渦巻く。
言葉には形容し難い感情が脳裏を掻き毟り、渦巻く。
不安なのか、喪失感なのか、或いはその両方なのか、
そんな事さえも分からなくなっていた。

ここで横隣から聞こえた敵の猛々しい声さえ右から左であれば、どれほど危険であっただろうか、
擦り傷では済まされない事体に発展していたかもしれない。
幸いにもそこまで愚かではない。阿鼻叫喚に慣れた耳は放心した状態の中でも己の致命になり得る殺意の声を聞き逃さなかったのだ。
重成は声に対し、一瞬遅れて気付く事が出来た。
刀を大きく振り上げ、必要以上の至近距離から迫って来る。
眼の端でそんな光景を捉えた。
今にも己が殺されようとしている。そんな実感さえ湧かない。
流石にその斬撃を受け止めるような余裕も意気も持ち合わせていなかった重成は、身体を逸らして斬撃を避けた。
軌道を目で追いもしない、ほとんどが戦闘の経験による本能の動き。
続く第二撃も左に躱す。
刀を打ち下ろして隙だらけになった相手の後方首元に、刀の頭を叩きつける。
悲鳴さえ上げず、力なく倒れる敵兵。
倒れた敵の穴を埋めるかのように、敵兵の波が重成に向かって押し寄せる。
一騎当千は得意とは言えないが、心身ともに何の異常もなければこんな人の波はすぐに超えられるだろう。
しかし今の重成は放心したままで、戦の本能だけで戦っている。先程隙だらけの背を突いたのも、全ては意識の範疇外で行われた事。流石にこんな状態では多くを相手に出来そうにもない。
ここで、己に耳を傾けて初めて理解した。
己の鼓動がやけに早くなっている。
まるで胸の中心で太鼓を打ち鳴らしているかのように。
一定音程一定速度で、
戦の最中に動悸を感じるなんて、一体何年振りの話なのだろう。

まさか動揺しているのか。
この事態を前に、動揺を感じているのか。
焦っているのか、
この、私に、
まだ『残って』いるのか。

琥珀色はそこで色を取り戻す。
瞬間移動のような動きで弧を描き、重成は移動する。
押し寄せる人の波を掻い潜り、地を這うように。
彼の軌跡には藤色の光がうっすらと残る。
華奢な軍医と吉継を背にした、彼等を庇うような位置に移動する。

遵守。
久しくその単語を思い出した。
己の君主を遵守していた、あの懐かしき思い出。
誰かを護りたいと再び思えたのだ。
それは重成にとって忘れていた喜びの感情であり、また懐古に溢れる『自分ができなかった』懺悔の感情だった。

後方では吉継を抱え込んだ軍医が、下を向いて歯を食いしばっている。
少年の覚悟が伺える。彼はこの戦場に飛び込んだ瞬間から死ぬ覚悟でいた。
重成は前に向き直り、獲物を振り上げて襲い来る敵の数々を睨み付ける。
琥珀色の瞳は怪しく、美しく輝く。
重成の身体は徐々に藤色の闇を纏い始める。
まるで器の中から水が溢れだすかのように、丹田から力が湧きあがる。
遵守に基づいた一途な思いが、丹田の動きを活発にさせているのだ。
重成は圧倒的な敵の数を前にしても焦燥を感じなかった。
こんな状況は最前線でよくあった光景だ。人の波が介入し、目の前を塞いでゆく。人に覆われると、その心情されも聞こえてくる。
それは己に向けられているものでしか無いのだが、
時折重成は思うのだ。

"ああ、何と研ぎ澄まされた殺意なのだろう"と。

右手に持った抜き身の刀と、左手に持った銃を、顔の前で交差させた。
人々の喧騒の中で、確かに重成の声は圧倒的な覇気を以て空気を震撼させた。

「空疎に沈め、生色(せいじき)の翅翼よ」

身体に纏わりついていた闇は、彼の持つ得物を黒く染める。
その瞬間、重成が走り出す。
辺り一面に斬撃の嵐が走った。
突然鎌鼬が巻き起こったかのような現象。彼の一定距離に近付いた者は容赦なく掃滅される。
黒い斬撃の嵐は、刹那を重ねる毎に色を強める。
まるで、小さな夜がそこに存在しているかのようだった。
風を切り、空気を裂き、空を薙ぐ。
悲鳴すら断絶された空気の中で反響を忘れている。
だが不思議な事に、吹き飛ばされている人々には傷の一つも付いていなかった。
ただ吹き飛ばされている、そうとしか思えないような状態。
重成は刀を逆に持っていた。本来刃があるべき方向に棟を向けていた。
棟から放たれた斬撃で一帯の敵が吹き飛ばされ、高く空を舞った。
重成は人が舞い上がる空に漆黒の銃を向ける。
しかし、一旦考えはしたものの、トリガーに掛けた手を緩めて発砲をやめた。

この技は殺傷力が高すぎる。
それは、この技を習得した時に他人を殺す事を厭わなかった時代が関係している。
瞬発力と得物、そして己が力量を活かし、ただ相手を屠る事だけを考えて編み出した技。
長く封印していた筈だが、身体の記憶はこの奥義を鮮明に覚えていたようだ。
刀を逆さにしていなければどうなっていた事か。
そして今銃を放っていればどうなっていた事か。
自分はよく知っている。

銃を手の内で弄び、闇が払われた銃をホルスターに戻す。
血振りのような動きで刀を振るうと、刀に纏わりついていた闇さえ消え失せる。
そこでやっと、宙を舞っていた兵士がひしゃげた声を上げながら地面に落下する。
見た所は誰も血を出すような外傷は無さそうだ。
打撲や捻挫、運が悪くても骨折といった所で済んだのではないか。

倒れ伏した人々を見回しながら、その中央で重成は考える。
何故咄嗟にこの技を使ってしまったのか、
不殺を信条とした己が、何故人を殺める為に編み出した技を使ってしまったのか。
だが不思議と自己嫌悪には陥らなかった。人を殺した喪失感も、そして生温い血の温度も、
今は何一つ感じないのだから。

一息入れようとしたその時、
部外から聞き慣れた声が叫んだ。

「刑部!!」

顔を向けた。
予想した通り、それは三成の声だった。
三成は吉継が倒れた事に今気づいたらしい、驚愕を貼り付けたままで動揺の色を見せている。
顔には脂汗さえ浮かべているようだ。遠く離れてはいるものの重成には見える。
焦燥だけが汲み取れる。
むしろ今の三成は焦燥のみを感じている事だろう。

「!!」

重成は瞠目した。
三成の背後。
鬼の形相をした元親の姿が見えた。
得物を背負い、ボンタンに突っ込んでいた左腕を振り上げ、今にも三成に振り下ろしかねないような態勢だ。
その表情には殺意がない。
あるのはただ、純粋な怒り。
目を向けた時に飛び込んでくる圧倒的な存在感は、まるで畏怖そのものを形容したかのようだった。

まさか、気付いていないのか、
刑部に気を取られ過ぎて、兄上は気付いていないのか。

「三成!!対者に背を向けるな!」

重成が声を張り上げ、三成の注意を促した時にはもう遅かった。
三成が我に返り、背後を振り返ろうとした瞬間、元親の左ストレートは三成の頭部に直撃した。
他の事に気を取られていた三成は、その衝撃に対して受け身も取れなかった事だろう。
受け身も、心構えもなく、
どうしようもなく唐突な衝撃の介入だ。

「がはっ……!?」

鈍い音を立て、三成の頭部からは血が零れる。
強靭な力で脳を揺さ振られた彼は、まるで糸が切れた絡繰のように力無く地面に倒れ伏した。
時が止まったようだった。
重成は目を見張る。
三成が、
彼が、
受け身も何もない状態で無力にも倒れてゆく。
そんな三成を見たのは生まれて初めてだった。
永遠にも感じた一瞬だった。

数秒置いて、三成を中心に紅色が砂浜に広がってゆく。
砂粒に水分を奪われ、すぐに血痕だけが残った。
その光景を、ただ重成は茫然と見ていた。
見ているだけが精一杯だった。


         
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