ある凶王の兄弟の話2

□紅い滴
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眼前に迫っているのは、物の怪の類ではないのか。
ある筈のない答えを頭が探し求めている。
日の光を暗雲が遮った。
光の死角にあったものが徐々に垣間見えるように、瘴気の渦が姿を現す。
闇の形容。具現化。
形を持たない筈のものが形を持っている。
戯言は今更どうだって良い。
今は、
今だけはそんな考慮が何一つ必要ないと感じた。

元親の表情には笑みは貼り付けられていない。
目の前にしているのは、凶王三成。
先程とはまるで別人のような瘴気と圧倒的なまでの存在感。
王と呼ばれるその風格を眼前にて理解する。

三成はゆっくりと歩み寄る。
抜き身の刀を右手に携え、焦点の合わない真っ赤に輝く瞳で淡々と歩みを進めている。
元親はその光景に決して怖気ずかなかった。
寧ろ、元親の心を掻き立てるのは猛者との邂逅による闘争心だった。
彼の隻眼が獲物を見つめる鷹のように煌めく。嵐の前の静けさのように、昂る心情を押し殺す。

「なッ…何なんだその不気味な姿…!」

「物の怪だ…人間じゃない!」

「アニキの本気の拳を受けておきながら立ち上がりやがった」

「化物だ…凶王は化物だ…!」

常軌を逸した三成の姿に、周囲はまるで凍りついたように戦の手を止めていた。
部外からの長曾我部軍の兵士の声。
戦慄を隠せない者達の声だ。

重成は荒くなる呼吸を落ち着かせ、伏しながらもその声を聞いていた。
聞き飽く程に耳にした言葉の数々。
その言葉が向けられている対象が己でないにしろ、ただ聞き流しているだけで一昔前に戻ってしまったかのような気分に陥った。
敵味方関係なく恐れられていたあの時。自分は何を思いこの言葉を聞いていたのか、もはや思い出せなくなった。
…いや、自分は忘れる事を望んだのだ。
もう、思い出したくもない。

首を少し傾け、ぼやけた視界の眼の端で三成の姿を捉える。
畏怖を纏った三成の姿が見える。
人の視線を集める悍ましい姿。
黒い瘴気の中心で紅い目を爛々と輝かせている。
凶を纏う三成を目の当たりにするのは初めてではないが、この姿は三成が滅多に見せる事のない姿だ。
第一、この瘴気を纏った状態は危険過ぎるのだ。溢れる闇は元来の身体能力を著しく上昇させるが、己の体を激しく蝕むという欠点がある。
一方では君主に乱用を禁じられた程だ。故に重成は、この闇を多少操れるまでには鍛錬を重ねた。
だが、三成は時折この闇を感情に左右されて暴走させてしまう事がある。
それが今。
酷い怒りと憎しみが彼を豹変させてしまったのだ。

「……。」

言葉を発した所で届かない。
通じない。
何も口にすることなく、重成は目を細める。
もはや何かを口にする事さえ億劫だ。
その重成の視界の中に、元親の逞しい足が介入した。

「これが凶王の本当の姿ってワケか」

元親は三成に向き直る。
碇槍を背負う元親のジュストコールを潮風がたなびかせ、彼を何倍にも大きく見せる。
隻眼が三成を捉える。
笑みの一切が消え去った元親の顔貌はそれだけで威圧を放っていた。
ペッと痰を吐き出し、至極低い声で元親は言う。

「自分の罪を憎むだァ?アンタは今まで殺した人間の…住家を焼き払われて死んだ民や俺の部下の気持ちを…!!」

彼は歯を剥き出しにして怒っていた。
徐々に声は怒りを帯びたかと思えば、元親は三成に向かって走り出す。
碇槍を振り上げ、最初と同じように、
相手の出方を伺う事もなく碇に怒りの炎を纏わせる。
腹に響くような轟音。
元親の炎が風を吸い込んで巻き起こす音だ。
その火炎は初めに目にした時とは桁違いだった。
元親の炎や力量は感情によって量を大きく左右される。
宛ら鬼の形相で、元親は三成に襲い掛かる。
対の三成は何の構えもなかった。刀を携え、悠々と歩んでいる。
その真っ赤な双眸に元親の姿を映しているのか、それとも自分自身の罪を映しているのか。
それさえも既に他者からは判別出来ない。
だが、相手の出方などあろうとなかろうと、元親の一撃は変わらない。
構えていようと、一閃の太刀筋を変えない。
それは相手の防御さえ砕かんとする強い意志の現れだった。

「死んで行った奴の気持ちなんざ考えた事もねェ癖に!語ってんじゃねェよ!!!」

容赦なく元親は碇槍を振り下ろした。
その瞬間、元親と三成を中心にゆうに身の丈を超えてしまうような大きな火柱が舞い上がった。
大仰な火花が撒き散らされ、地響きと共に乾いた浜砂が衝撃によって宙に巻き上がる。
周囲の人間が敵味方関係なく吹き飛ばされる。
完全に五体投地していた重成も、例外なく熱風に吹き飛ばされる。
地面を転がり、身体を打ち付ける度に痛みが走り抜けた。
しかし重成は呻きの一つも上げない。
無理に身体を強張らせもせず、ただされるがままに地面を転がる。元親に敗北し、落魄れた今の自分には、それが一番お似合いだ。

一撃による砂煙が静けさを纏い始めた刹那。
元親は煙に隠れる槍の先に、確かに金属の摺れる感触を感じた。
彼は瞠目する。
煙の晴れた槍の先に広がっていた光景に、純粋に驚く。

三成は立っていた。
立っているだけではない、あの火柱さえ巻き上げた元親の一撃を、刀一つで確かに受け止めていたのだ。
ギリギリ不快な音を立て、互いの鎬が削られる。
闇の中で怪しく輝く紅い双眸。
それ以外の表情は三成が発する黒い瘴気のせいで伺えない。
今の三成がどんな表情を模しているのか、それは彼を眼前としている元親にさえ分からなかった。
更に、元親の眼を奪ったのは三成がただ斬撃を受け止めていたからだけではない。
刀を握りしめる三成の右手。
彼の右手からは血が滴り落ちていた。
三成は余りにも強く刀を握りしめているのだ。
その握力の余りに鎖帷子すら超え、柄巻の奥の茎(なかご)で掌を斬っているのだろう。
異常な光景だった。
茎で手を斬る程まで刀を握り締め、
金糸雀色の眼を真っ赤に滾らせ、
丹田から底なしの沼のように瘴気を発生させている。
これが異常と取られずに、何を異常と取るのか。

「秀吉様…」

三成から確かに聞こえた声で、元親は我に返る。
異常なまでの三成に、我をも奪われていた。
しかし気付いた時にはもう遅い。
防御に転ずる暇さえ既に残されていなかった。
三成は吠えるように叫んだ。

「どうかこの私に、許しを乞う許可を!!!」

「!」

三成は刀を振り払った。
その細身な身体からは想像も出来ないような力。
周囲の風を巻き込んで元親の大きな身体は大仰に吹き飛ばされる。
そう、元親は押し負けたのだ。
三成の力に。体格差を感じさせないような一撃で。
それを頭の端で理解した時には、既に元親の五体は宙に浮いていた。
そのまま元親は後方の切り立った崖の麓に叩きつけられる。
音を立てて岩が根元を破壊され、砂埃を巻き上げながら崩れる。
やがて音は止み、元親の姿は崩れた岩と砂埃に隠れて見えなくなった。

「アニキィイィィイイィイィィイィィィイ!!!」

長曾我部軍の兵士達が声を揃えて叫んだ。
地響きのような轟音が煙の中を蹂躙する。
これが凶王の力。
目の前で目撃した長曾我部軍の兵士は、ただただ自軍の大将の名を呼ぶ事しか出来なかった。
三成に多勢で襲い掛かった所で、勝てる確証がない。何せ自軍の大将が力で押し負けたのだ。
元親が力の前に屈服してしまったのだ。
そんな恐怖を彼らに植え付けた三成に襲い掛かるような果敢な者も、愚かな者も、どこにもいない。
三成はその場から動かない。
振り切った体勢をゆっくりとした動きで戻し、ただ虚空を見詰めている。
右手から血を流したまま、彼は刀を離そうとしない。
血が出ている素振りさえ見せないのだ。
或いは彼は本当に痛みを感じていないのかもしれない。

「…へへへッ」

僅かに届いた、嗤う声。
それは元親が消えた山積みの岩片の向こうから聞こえてきた。

「へっへっへっへ……」

そんな笑い声を溢しながら、元親が倒れた岩の間から姿を現した。
隙間を掻き分けるように岩片を踏み分ける。
俯いたままの状態だ。
逆立っていた彼の髪もすっかり容積を失い、顔の方に垂れ込めている。
身体は薄汚れ、ジェストコールも埃を被っていた。
満身創痍。
三成の一撃は、ここまで元親を追い込んだのだ。
だが、元親は笑っていた。
余裕の為に笑っていたのではなければ、出鱈目な一撃を受けて面白おかしくなった、という訳でもないだろう。

元親は岩片を抜け三成を前にすると、己が碇槍を砂浜に深く突き刺し、俯いたままで言葉を紡いだ。

「凶王…いや、石田三成」

元親はゆっくりと擡げた顔を上げる。
眼は三成を睨み付けていながらも、その口元は笑みを模していた。口元を少し歪めながら、元親は三成に目をやる。
睨んでいながらも、三成を見る眼差しは変わっていた。
怒りや悲しみによる鬼の形相ではなく、人の本性を見つめる慧眼に、
元親は続けた。

「アンタ…ちゃんと生きてるじゃねぇか。アンタの心は…てんで死んじゃいねぇ」

その優しげな元親の言葉に瞠目したのは三成ではなかった。
それまで傍観していた重成だった。
太閤を失ってから死んでいた三成の心を、元親は生きていると断言したのだ。
分からなかった。
三成の何が元親の眼に見えているのか。
頭の中で反響する台詞をいくら咀嚼しても頭で考えるだけ無駄であるような気がした。

「…何、故…?」

鉄の味に溢れた口から出た言葉は、そんな疑問に溢れた滑稽なもの。
その瞬間、脳髄を掻き毟る感情を覚えた。
この感情は一体どこから湧き上がってくるものなのだろう。
憤怒?悲哀?吃驚?それとも鬼胎?
正体が分からなかった。この感覚を、重成は幾度も覚えている。
いくら感じても何も分からない。
理解出来ない。
未だ頭で理解できていない感情があるのは自覚している。
しかし知ろうとしても己が拒むのだ。
築き上げた仮面がそれを拒むのだ。

「石田三成アンタの瞳には「憎しみ」とは違う別の何かを感じる」

元親が言う。
三成は動かない。
ただ憎しみの籠った瘴気を立ち上らせたまま眼を紅く染め上げている。
今の三成に、他人の言葉は届かない。
如何なる説得も通用しない。
それを重成は知っていた。

だからこそ重成は四肢に力を込めた。状態を起こし、地面を這うように立ち上がる。
自分の身体に鞭を打った。
このままではいけないと、
このままでは三成は殺戮の限りを尽くしてしまうだろうと、
殺してはいけないと強く意志が叫んでいた。

「貴様に…私の何が分かる!!!」

三成は強く吠えたかと思えば元親に襲い掛かった。
白刃の刀を剥き出しにして、目の前の障壁を圧砕せんと殺意を滲ませる。

「…来いよ」

元親は静かに碇槍を担いだ。

「その心を…この俺にぶつけてみろ!」

元親も三成に向かって駆け始める。
重成はそれを見ているだけではなかった。
二人の位置をグラつく視界の中で捕捉し、冷静に交点を予測する。
右手に持った刀を振り上げながら、重成は微弱な声で言う。
誰にも届かないような細い声で。
「やめろ」と、ただ一言呟いた。

       
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