ある凶王の兄弟の話2

□海陸路
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それからの事石田軍は、進行の一時中断を余儀なくされた。
天君程の優駿であれば、長期遠征に際して長い休憩をとる必要はない。
しかし長曾我部軍の襲撃を受けた今、天君は傷付き、策士は病に伏せ、大将の側近は深手を負ってしまった。
数多の兵士も、また同じように傷を負った者が多数存在する。
こんな状態で軍を進める訳には行かない。
石田軍はそのまま、月が昇り、再び夜が明けるのを待つ事にした。

寒い夜だった。
秋の夕空は風も吹かずに静かにやって来る。
これからどう方針を取るか、
その策を練る吉継も、病状こそ安定したものの起きる気配を見せる事なく床に伏せたまま。
その点に関しては重成も同じ状態にあった。
あれから彼は直ぐに眠ってしまった。殆ど気絶に近い睡眠だった。
彼が他人の施しを嫌うと知っている軍医達は、彼が自ら世話を掛けると頭を下げた事に酷く驚いていた。
彼が眠っている間に外傷の処置を済ませる。
麻酔が効いている間に、開腹手術によって折れた骨の欠片まで取り除いて貰った。
本来治療を嫌うのは三成も同じで、既に止血していた血を拭い、簡単に消毒した程度で包帯で頭部の傷を塞ごうともしなかった。

忙しなく軍医は仕事に追われ、まるで競争をしているかのように行ったり来たりを繰り返していた。
予想以上の怪我人の数に早くも医療薬が底を尽きようとしている。
元より、こんなにも早くの戦を想定していなかったのだ。
何もナシに目的地へ到達する予定だとは言わずとも、表向きは単なる移動に過ぎない。持ち合わせているのは予備程度の僅かな医療器具と薬。
ただでさえ少ない物資を分け合い、治療に専念する。
不安だけが募る夜だった。

そんな夜も、所詮はいつもの闇夜と変わらない。
不安な夜にも必ず暁はやって来る。


日の眩しさが窓から差し込み、澄んだ空気の香が溢れ出し、鳥の囀りが朝の訪れを知らせる。

窓から溢れる日の眩しさを受け、重成は目を覚ました。
重い瞼を持ち上げ、夢現に風景を眺める。
そんな彼の視界に一人、見慣れないシルエットが浮かび上がる。

「お早う御座います、重成様」

彼の床の側には、前夜の区切りがついた軍医が一人座していた。
若い軍医だった。円状の眼鏡を掛け、髪は乱れるまで歩き廻ったのか、少しウェーブかかっている。
重成が目覚めるまで側で読書をしながら待っていたらしい。
彼はまだ幼さを感じさせる童顔の丸い眼の下にクマを作っていた。その軍医が窶れていることは一目瞭然だ。
だがその窶れた顔を隠すように軍医は笑っていた。

そんな彼を見てか見ずしてか、重成はぼんやりと天井を見上げた。
状況の理解を覚醒したばかりの頭で進める。
長方形の畳四畳程の空間に格子掛かった窓。見たことのある風景が視野に広がっている。ここは天君の引いていた馬車の中のようだ。
日差しは後方の出入り口から差し込んでいたようだ。まるでずっとそこに存在していたかのように太陽が燦々と紫外線を振りまいている。
日があんな所まで昇っている時に目を覚ましたのは初めてだ。通常ならば日の姿も見えない刻に勝手に眼が覚めるのに。
日の位置から察するに、おおよそ現時刻は辰の刻といった所か、
眩しい。出入り口から覗く風景には雲一つ浮かんでいない。

「!」

そこまで把握した所で、突然重成がバネのように上半身を跳ね起こした。
身体には激痛が走ったが、痛覚自体が麻痺している違和感があって表に出す程大仰な痛みには感じなかった。
側にいた軍医が「ひゃ!」と、情けない悲鳴を上げながら腰を抜かす。
そんな軍医の驚きを何一つ気にかける様子も無いまま、どこか切迫した表情で重成は問い詰めた。

「刑部は、刑部は何処に。無事なのですか」

或いは本当に切迫していたのかもしれない。
軍医の少年は丸い眼を白黒させ、床に肘をついて愕然とした表情を浮かべる。
倒れたせいで片側のレンズが頬にまでずり落ちてしまっている。
ただ驚いただけなのに、間の抜けた人の代名詞のような格好になってしまっていた。
しかし、そんな姿勢のまま少年は表情を一転させて柔和に微笑んでみせた。

「ご安心下さい。刑部様の命に別状は御座いません。ご存命であります」

まるで平常心を失いかけていた重成を宥めるような言葉だった。
何処かあどけない表情の少年を見ると、自然と重成の肩の力も抜け始めた。
医師が持つ独特の安心感だろう。
不思議と溜息が漏れる。
安堵の為の吐息だったのか。
ここで失いかけていた我が返ってくる。
頭より先に身体が動いていたらしい。
眼に余る短慮な行動を取ってしまったように思えた。

「…見苦しい所を。すみません」

眼を伏せて謝罪を述べる重成。
益々痛みは増している。
それは怪我だけのせいではない気がした。

「安静に為さって下さい。快復には時間が必要です」

何一つ気に掛けた様子もなく、少年はそう言った。
重成はやっとここで、自分の事について思い出した。
何故こんな所で床に伏せていたのか、
何故軍医が側にいるのか。
そして、衣服の合わせから覗く、己が胸部の夥しい縫い目。鈍い痛み。一晩のうちに大掛かりな手術が行われたのだと察する。
自分の状況の理解はいつも後回しだ。
まずは周囲を理解するのは今までも同じだ。
何を優先すべきか。何をすべきか。それをいつも頭の中で模索しているからだろう。

重成は暫し沈黙した。
表で鳥が謳っている。
さも愉しげに、何も知らない鳥は囀る事で自己を主張し続けている。
僅かに耳に届く人の声。何を言っているのかまでは雑音に入り乱れて聞き取れない。

間を置くと、重成はこう切り出す。

「随分と苦労を掛けました。ありがとうございます。申し訳ありませんが、私は床に臥すつもりはありません」

どこか吐き捨てるように言うと、重成は立ち上がった。
痛みを感じる素振りもなく、いつもの朝のように、ただ行住坐臥を繰り返すだけのような動きで。
まるで昨日まで病み上がりの重症患者だったとは思えない所作に、流石に少年は狼狽を隠せなかった。
そもそも重成が負った内部損傷の怪我は一睡しただけでは治る筈もなく、完治はおろか立ち上がる事にさえも時間を有するようなものだったのだ。
しかし今となっては、その筈だった。と言い換える事しか出来ない。
少年は宥めるように言葉を発した。

「なりません!まだ安静にしなければ後遺症が残ってしまう可能性が…」

焦燥を孕んだ少年の言葉。
しかし焦る素振りもなく重成は答える。

「いえ、充分休息を取りました。とりわけ元来から無闇に床に着くのは落ち着かないのです」

他人と感情を共有出来ない重成にとって、焦りを促す言葉に同調して焦りを覚えたりする事はないのだろう。
少年にはもはや掛ける言葉さえ見当たらなかった。
重成はそういった人物なのだ。
考えている事が分からないとよく言われてしまうのは、これが一因しているだろう。

忠言に耳を傾ける素振りもなく、着物の紐を解き小袖を羽織る。
その時に垣間見えた重成を埋め尽くす生々しい傷跡の数々を目の当たりにして、少年は息を飲んだ。
傷跡が身体全体に広がっているのに、何故か重成の左腕だけは綺麗な白い肌のままなのだ。
まるで女の左腕を縫合したかのようだった。
勿論、現実ではそんな事有りもしないのだが、それほどまでに傷一つない彼の素肌は白く美しかったのだ。
いや、そんな事に関心を抱いてる場合ではない。何も言えないまま、心配そうに重成を見つめる少年。
彼の視線に気付いた重成は、はにかむように口元を緩めてこう言った。

「大丈夫です。自分の事は自分が最も理解しています」

それに人とは、医師が思う以上に頑丈なものです。

後に付け足すように加えられた言葉が、果たしてどれ程までの意味を持つかは未知数だ。
もしかするとそれは身体の意味ではなく、心の意味だったのかもしれない。
それとも単純に長年重成が続けてきた戦の最中で学んだ事なのかもしれない。
まるで言葉としての意味を深く孕んでいるかのような不思議な感覚

羽織がはためく。
彼の兄弟と良く似た、純白を藤色で縁取った羽織。着た者を凛々しく見せる矜持の象徴。
振り返った彼の背に描かれた、鳥の翼のような紋章。
つい先程まで側で眠っていた事を忘れさせてしまう佇まい。
これが本来の彼の姿なのだろう。

「態々ありがとうございました。さぞやお疲れでしょう。暫くこの馬車の中でお休みになって下さい」

重成は感情が篭っていない声でそう言った。
だが言葉としての感情が大袈裟なまでに込められた台詞は、その声の空虚を隠蔽していた。

「…いえ、重成様こそ、お気をつけて」

今更止めた所で重成は踏み止まらない。
軍医の青年は暗黙の内にそう思った。
微笑んで見せる。
重成も、青年と同じように笑って見せた。だがその表情も何処か作り物のような辿辿しさを感じる。
鏡写しに自分の笑顔を見ているかのようだ。

小さく一礼したかと思えば、重成は日光が漏れる扉の奥へと姿を消した。


           
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