ある凶王の兄弟の話2

□波間の上にて
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出航の合図が鳴ったのはその日の夜だった。

時は子の刻。月も姿を隠したままの新月の夜。
多くの者が、本日の暮れ六つに物資を運ぶ労働に追われた。
勿論、人手が足りる筈はなく、労働を強いられたのは『動ける者』だった。
足を負傷している者であろうと、腕を負傷している者であろうと、はたまた頭部を負傷している者だろうと、最低限部隊長の指示を判断し、動ける者は全て働かざるを得ない状況下に置かれた。
お蔭で船内にいる者は、皆死んだように寝息を立てている。
そうでなくともこのような夜更けに起きている者など、見張りを除けば皆無に等しい。

暗い、暗い、全てを呑み込まんとする闇夜。
人の声は掻き消え、どこかの部屋から深いいびきと水が波打つ音が谺す。
多くの生き物が活動を停止する刻。
だが重成は、床に就く事が出来ずにいた。
彼は個室にいる。

吉継は別の一室で軍医と共に眠っているらしい。
吉継も決して全快ではないのだ。何時如何なる時に病状が悪化するのか分からない。
病に蝕まれ続けた身体にあのような無理を強いたのだ。
これから数日は吉継の傍には軍医が居続ける事だろう。対して重成は、今日遅くに目を覚ましただけあって、どうしても床に就く気になれなかったのだ。
…いや、それだけではない。
痛みが麻痺する感覚が消えて、鮮明な激痛が胸部を覆っている。
縫われた跡がじくじくと鼓動に合わせて痛む。目を閉じても、とても眠れたものではない。縫い目に触れようものなら指先に僅かな血が付着するのが分かった。
慣れない船に揺られているという事も一因しているのかもしれない。

しかし船で過ごすのは、経験上これが二度目だった。一度目は、三成と共に海を超え、異国に物資を届けたあの時。
もう随分と昔の話で、思い出せたのが奇跡と思える程の昔。
故に潮風の匂い。水に晒された木が軋む一縷な音。
その全てが久方というよりも、新鮮だった。
いや、この際言うなら目障りといった方が正しいだろう。
いつもと違う船独特の浮遊感は気分を害させる。

「……うぅ……」

船酔いか怪我か、身体が熱を持っている。軍医に休めと言われたのも今なら納得出来るが、特に後悔はなかった。
身体の均衡が普段感じない振動や揺れの刺激を受け、おかしな事になっている。
一度目の時、私はこの感覚を覚えていたのだろうか。
そこまで思い出せない。
呑気にそんな事を考えながら、横目に丸い覗き窓の外に見える闇夜を眺める。
本当はあったと思われる方向に眼を向けただけだ。
月は見えなかった。明かりがないせいで窓ガラスの光沢すら見えない。
それでも静かに空を眺める。
波を掻き分け船が進む騒音、別の一室で聞こえるくぐもった鼾(いびき)、布が擦れる音、
先程から重成は、どんな音も意中から排除せずに聞いている。
力学的には容易でも人間には難しい。
だが彼はそれが出来てしまう。
別段出来た所で特別な事は何もない。
今より遥か前に存在していた『聖徳太子』という政治家の真似が出来る、と言える程度だろう。
下らない。

脳が覚醒している。これ以上無理に瞼を閉じた所で意味がない。
軽い瞼を完全に持ち上げ、瞬き一つ。
欠伸すら出ない鮮明な思考回路。
横になろうと思えないせいで、目を開けた瞬間、更に頭は覚醒してくる。吐息はいつもより熱く感じた。
昼間の不安を今も覚えている。
それが一体何のかは分からない。
だが重成はその点に関して考える事を放棄していた。
何故なら重成のこういった勘は悪い方向にばかり的中する。何が起こるかまでは分からずとも、その見解だけで十分だ。

「……ぐ、」

重成は闇夜の中、胸部の熱を持つ縫い目を庇いながら、灯篭に火も付けずに立ち上がる。
そのまま西洋をイメージしたドアに手を伸ばした。ドアの向こうは当然ながら廊下。
伸ばした自分の手がどこにあるのかも分からない闇の中、重成は鮮明に眼前の景色が見えているかのような足取りで廊下を歩いた。
重成は闇を扱う婆裟羅者。
毒を持って毒を制するように、闇に包まれた中でも重成は自由に道を把握する事が出来る。
キィキィと床板が軋む。誰も起こさないようにと気を配っていると、自然と忍び足になる。条件反射だ。

見えずとも、目の前に迫ったと感じたドアを開ける。
その先は船の表だった。
船の上部構造物を出て、船首にやってきたのだろう。
表の空は晴れていた。
月がなくとも、星の瞬きが物を捉えるに十分な光源となっていた。
見上げた空には天の川が見える。
周囲に人工的な光源がない故に、その小さな光さえ視覚化する事が可能なのだ。
晴れた夜であれは、いつでも見つけられる光景。
天の川が見える事は大して珍しくはない。

「……」

当てもなく歩いていると、舳先(へさき)にランタンの人為的な明かりを発見した。
明かりの傍に見覚えのある外套の影が一つ。
それは波風を受け、大きく靡く。

その人影は元親のものだった。
元親は一人、舳先で物思いに更けながら御猪口を片手に酒を嗜んでいる様子だった。
こちらからでは彼がどんな表情をしているのか見えない
風を受け、短い白髪を揺らしながら愁情な雰囲気を漂わせている。
一体何を考えているのか。
西海の鬼、海の男と大胆に謳われる彼さえ、このような背姿を見せるのか
そんな関心に似たものを覚えた。重成は、元親の背に声を掛ける。

「…如何されましたか。そんな所にいると風邪を召されてしまいますよ」


    
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