ある凶王の兄弟の話2

□灯火烈火
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石田軍が甲斐に到着するまでにそう長い時間は掛からなかった。
勿論、決して短い道程ではなかったが、それも中国から京に向かうまでの道程に比べれば随分とマシなものだ。その過程には長曾我部の襲撃の一件もあったからかもしれないが、

道を歩む最中に重成と三成が言葉を交える事はなかった。
二人の距離はいつもと同じ。先頭を仕切る三成と、その右斜め後ろに位置する重成、同じく左を進む吉継。
天君に跨ったまま悠然と進む三成。
久しく重成は前を見据えずに進んでいた。
重成の視線は己の握った手綱に向けられている。
気分が落ち込んでいた訳ではない。初めて三成と喧嘩らしい喧嘩をした事による後ろめたさがある訳でもない。
単純に、どこか心苦しさを感じていたのだ。
苦しいと形容したものの、実際は自分を置いているいつもの状況に対しての苦しみかどうかさえも分からない。もしかすれば空っぽなだけなのかもしれない。
空虚感。それが最もしっくり来る例えだ。
幾度となく己が満たされていないと、何処に自分が属しているのかが分からなくなる感覚。
集団で行動していながらも孤独を感じている。だから虚しいと思うのだろう。

家康様に会ったからだろうか。
らしさを忘れた反動だろうか。
自分を見失ってしまった反動だろうか。
三成に盾ついた反動だろうか。
理由は不明。暗黙。曖昧模糊。
誰に伝えた所でこの心持は変わらない。
寧ろ伝えてはならない。
これは他人に、特に同じ石田軍に明け渡すようなものではない。
心情を晒してしまえば、心だけでなく物理的にも石田軍から離叛してしまう事になる。
そんな事態、三成や自分自身が最も嫌う裏切りの行為に他ならない。
そう、裏切り。
これは裏切りだ。
秀吉様に対しての、
半兵衛様に対しての、
豊臣に対しての、
石田軍に対しての、
刑部に対しての、
そして何より----三成に対しての、
同時にそれは私に残酷なまでの現実を突き付ける。
裏切りとは三成の視点から捉えたものだ。
私の視点から裏切りを捉えてみろ。
自分の視点で自分を推し量れば、自ずと分かるだろう。

私の空虚の原因は三成なのだ。

この虚しさは、三成に付和しているからこそ発生している。
だからと言って私は兄弟に刃を向ける勇気は持ち合わせていない。
特に今は仲間割れしている場合ではない。状況が状況なのだ。
家康様に寝返るだなんてもっての他だ。尻軽な金吾様じゃあるまいし。
ほら、こうやって、
息をするように私は胸の内で他人を無碍にしている。
幾ら考えを改めても、結局は石田の人間である事に変わりはないのだ。
出生を呪うか、将又こんな思考を持ってしまった自分を恨むか。
私はどちらも憎む。石田としての血も、薄情な自分も、
こんなもの、ただの『詰み』だ。
その先には何も存在しない、決め付けだけの妄言の世界。
いっそ何も考えない方が楽だ。
三成のように。
虚しさの元凶の三成のように。
全てを忘れて誉れだけに縋っていた方が楽な生き方なのかもしれない。

「到着致しました」

そこで
軍が進行を止めた。
利口な天君は態々指示を出さずとも周囲を見て行動の判断をする。
跨っていた天君が動きを止めた所で重成は視線を持ち上げた。
眼前には大きな関門が固く戸を閉ざしたまま佇んでいた。
所々に傷が付いた扉だった。かなり年代が経っているのか、鍛錬にでも使われたのか。何にせよ人為的な傷がよく作られた扉だ。
何故か扉の奥から水がゴウゴウと流れる音が聞こえる。音量からしてかなりの量だろう。
武田の水攻めは有名な戦法だ。この場に関係あるのかと問われれば首を捻る所ではあるが、
余計な事に思いを馳せていると、扉が独りでにゆっくりと開き始める。
武田城の門の造りは水門らしい。水溜めに水を送り込み、その重みで扉を開けるという絡繰だ。
如何にもあの長曾我部が好みそうなものだ。
先程からうねり続けている水音は、この関門を開ける為に流されていたものらしい。
随分用意が早い。まるで石田軍がここに訪れるのを知っていたと言わんばかりだった。
いや、強ち間違っていないのかもしれない。
武田には優秀な忍がいると聞く。
真田の十勇士。
文を遣さずともこちらの動きは既に掴んでいたのだろう。
水門が開いている間に、石田軍は馬から次々と降りる。
全員が降り切って間もない時だろうか、

「---貴殿が西軍の総大将、石田三成殿でござるか」

扉の奥から唸るような声が聞こえた。
違う、正しくは厳格さを滲ませる声、といった方が良かったのかもしれない。
だが低くこちらの様子を伺うような声色は、宛ら鋭い眼で獲物の様子を伺う猛虎のそれと同じように思えたのだ。

門の奥から現れたのは、多くの兵を従え、真紅に身を包んだ青年だった。
歳は三成や重成と同じ位だろうか。
籠手の付いたジャケットを羽織り、剥き出しの引き締まった腹筋には晒を巻いている。
首に掛けた六文銭、そして額に巻いた長い紅鉢巻。
重成は初対面であったが、現れた青年が誰であるのか、耳から聞かずとも理解出来た。
強い意志の籠った眼で、青年は続けた。

「某は武田軍大将、真田幸村」

甲斐の若虎、真田幸村。
三つ又に分かれた二槍の槍で幾度の激戦を潜り抜けた婆娑羅者。
そして何より、あの独眼竜が好敵手と認める腕を持った男。
先入観は拭えない。

「石田殿。貴殿の噂は予々耳にしている」

噂。
決して良くはない三成の噂。
その噂だけに囚われ、対面した段階で三成に臆する者もいる。
しかし幸村の眼は怯えているようには見えない。噂を聞いているとはいえ、見もせぬ人を勝手に畏怖の対象にするような愚か者ではないらしい。

「石田軍の補佐、大谷吉継と申す」

幸村に対して応えたのは吉継だった。
三成が西軍の顔とすれば、吉継は宛ら頭脳。
対して重成は存在せども干渉しない影といった所だろうか。
淡々とした口調で吉継は言った。

「甲斐の若虎。そう呼ばれるぬしの力添えを頂きたく、この甲斐に参った」

幸村の眉間に微量の皺が寄った。

「予め文は出していた手筈。その旨を聞かせて貰いたい」

幸村はその一言を書き終わる前から俯いていた。とても一人の大将とは、下手をすれば強者にさえ思えない程頼りない佇まいだった。
迷い。
彼の瞳には迷いが生じている。
選択を迫られた青年は、黙し続けたまま視線を泳がせる。
流石の吉継も不審感を持ったのか、それ以上は言葉を刻まなかった。
冗談や軽口の一つもない、長い沈黙。
やがて幸村は沈黙を破る。

「…某は、未だ大将としての器を持ち合わせてござらん」

弱々しい声色。
窮地に追いやられた寅のそれと同じだ。

「先代の大将が病に伏せ、某は志半ばにしてこの甲斐の未来を託された。…どうすればお館様のように強く、聡明で偉大な大将に近付けるのかと悩み、苦しんでいる」

こんな弱い心でどちらにつくかなど、決められる訳がない、と。
幸村は更に続けた。

「情けないのは承知の上…どうか某に時間を頂けないだろうか!?石田殿!」

懇願。
一人の大将ともあろう人間が、単身で敵味方どっち付かずの軍に対して懇願している。
それだけ追い込まれているのだろう。
追い続けていた背が消え、路頭に迷える孤独な若虎。
同情の余地はあるのだが、
生憎悠長に待ってやれる程こちらにも時間がある訳ではない。
最短の道を辿り、態々時を急いてまで甲斐にやってきたのだ。
三成はギリリと歯を軋ませる。

「貴様に費やすような刻は残されていない。この世の真実は絶望の中にこそある。私はそれを身を以て証明しなければならないのだ…!」

そう言い放った三成は、恐ろしい剣幕で幸村を睨んでいた事だろう。
対峙する幸村がたじろいだのが良い証拠だ。
幸村が怯んで一歩後ずさると共に、三成は一歩を踏み出した。
流石に吉継は「抑えよ、」と制した。
だが三成は吉継の制止さえも振り切り、刀に手を掛けた。

「立ち止まる事など断じて許されない。貴様は黙って手を貸せ、今直ぐに!!」

気が付けば三成は幸村に飛び掛かっていた。
白刃の刃が剥き出しになる。
振り被った右手には殺意が込められている。それ以外の感情など三成の行動にはない。
無謬なる殺意が幸村に襲い掛かる。
幸村はそれを間一髪の所で受け止めた。
槍と刀の鎬が大きく削れる。
大仰な火花が舞い散った。

「ぐうぅ…!!」

幸村は足に力を籠め、寸での所で勢いを相殺させた。
精神的に弱っているとはいえ、幸村も一介の猛者だ。戦に対しての神経は研ぎ澄まされているのだろう。
でなければ、正面とは言え不意打ちにも似た三成の一撃を止めるのは不可能だ。
彼の一振りを止める事態、既に並みの兵士には成し得ない。

それにしてもおかしい。
重成にはいつもの三成ではないように思えた。
まるで焦っているよう。
刻に急かされているかのようだ。
何事にも動じない筈の三成が焦燥している。
彼が一体何を慌てているのか、違和感は覚えようとも行動だけでは重成には分からない。

雄叫びと共に幸村が刀を捌いた。
弾かれた三成は空中で体制を立て直すと、そのまま着地して刀を構え直した。
明らかに臨戦態勢だ。互いを睨み合う2人。
そんな事をする為に甲斐を訪れた訳ではないのに。

「武器を納めよ三成…!ここで真田を失えば、我らに勝ち目はない…!」

吉継の声にも熱が籠っていた。
なのに

「分かっておるのか!ぬしは秀吉様の後継者なのだ!」

重成はその場を動かなかった。
動けなかった。いつものように三成に制止を掛ける事すら憚れた。
ただ目の前で起ころうとしている惨劇を傍観していた。
他人事のように、
自分自身の事なのに。
この先の命運を賭けていると言っても過言ではない状況である筈なのに、

「…分からない」

吉継の言葉を受け、構えた刀の緊縛を解きながら、譫言のように三成は呟いた。

「……幾ら記憶を辿ろうとも、秀吉様の顔が思い出せない…」

泣き崩れそうな、それでいて壊れてしまいそうな声。
重成の位置では、三成がどんな表情をしているのかは分からない。
ただ不安を感じた。
三成からは感じない筈の、最も彼から遠い位置にある感情を、
かつてない程の単純な不安。己が奥底で抱いていたものが一気に湧き上がったようだった。
以心伝心の悪癖。
お互いを知り過ぎている故に起こる現象。
血の繋がりが引き起こす現象。

重成が三成に影響されて我を失っていたように、三成もまた重成に影響されて我を失っていたのだ。

「三成…貴方は…」

主君の顔を忘れる程の、心の中にある何かに----
恐れているのか…?

もしかすると、それは同じ境遇で育ったからこそ解する事が出来たのかもしれない。
君主の畏れを忘れるまで三成が恐れているもの
それは…-----

重成は言った。

「絆を恐れているのですか?」

それが決定打だったに違いない。
三成の右手から、刀が零れ落ちた。
ガシャン、と、刀が武骨な音を立てて着地すると同時に

「あああああああぁぁぁあああぁぁぁああああぁぁぁぁぁああああぁぁぁぁぁあああぁあぁあ!!!!」

頭部を握りつぶさんとばかりに頭を抱え、蹲り、耳を劈く大声を発しながら、

石田三成は、壊れた


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