ある凶王の兄弟の話2

□異形の影(上)
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崩壊
一際大きく劈いた叫びは、精神の崩壊を意味していた。
獣のような声というより、人が出した音とは到底思えぬ声色と形容した方が良いのかもしれない。
怖れを知った彼はもはや人の外にある鬼ではない。
単なる図星ではない事は白日だった。
その正体が何であるのか、重成が知るには充分なサインだった。
三成は無意識の内に遠ざけていたのだろう。
絆に対して怒りや嫉み、恨みを抱く事で、奥底で感じていた『恐怖』という感情の存在を。
『畏怖』と『恐怖』
同じ『怖』の文字を使いながらも、意味が全く異なる。
三成にとって最も身近な感情だったものこそが畏怖であり、その逆に位置するのが恐怖。
君主の軌跡畏れ続け、
懼れも知らずに失った背を追い続け、
危害も失敗も懼れずにここまで進んできた。
そんな彼が最も遠い位置にあった恐れを知れば、脆い精神は崩壊する。
元来から強靭に見えて、簡易な場所で繊細なのだ。
現在の三成は、他人が偶像した----凶王そのものに相違ない。

凶王は頭を掻き毟りながら蹲る。
何かに怯えるように
何かを恐れるように
蹲ったまま動かなくなってしまった。

「みっ…三成様!お気を確かに!」

小隊長の一人がそう言いながら三成に駆け寄った。
唐突の事態にいても立ってもいられなくなった側近だ。

「!」

彼の影を捉えた三成の眼は、ぎらりと死角から割れた硝子のように光を乱反射する。
彼の腕から垣間見えた眼は

大きく見開かれ、赤く、紅く、緋色に染まっていた。

背筋が凍った。
緋色に染まった眼差しを持つ三成は人ではなく、見境の無い魑魅魍魎か何かに見えた。
あれは殺意の色。
同時に、太閤の色。
蹂躙に満ちた悍ましい色。
脳髄に警鐘が鳴り響いた時には手遅れだった。
たった一人三成の殺意に気付いた所で、家臣に注意を促す暇さえ与えられなかった。
足に力を込めようとした刹那。

「一体  どう  さ  れ」

何が起こったのかさえ分からないような一瞬の出来事。
突如、駆け寄った者の頭が首からずるりと零れ落ちた。比喩的表現ではない。文字通りの直接的な意味で。
固いものが地面に落ちる音と共に、頭を失った首から鮮血が溢れ出る。
唐突に起きた惨劇に、その場の者は息を忘れた。
重成も何も出来ずに立ち尽くしていた。
何故何も出来ないのだろうか。今迄の私ならこの程度で動揺したりはしない筈なのに、
足の力を徐々に抜いた。というよりかは、抜けた。助けようとしていた筈だった者が首を失くして地面に転がっている。
仮に重成が飛び出していたとすれば、ここで倒れているのは明らかに自分だろう。
重成にさえ見えないような斬撃だったのだから、
不謹慎だが、そう思わざるを得ない。
犠牲?
違う、そんな御都合主義な呼び方は出来ない。
斬られた者は単なる被害者だ。
それも、彼は自分が死んだとも理解できないような刹那に命を絶たれた。死して尚言葉を発し続けていたのはその為だ。
首を狩ったのは三成だった。彼の右腕には血を被った白刃の刃が握られていた。
いつ刀を拾ったのかも、抜刀したのかも、挙句の果てには振ったのかさえ分からなかった。
例えるなら時そのものを切り裂いたような、そんな抽象的な比喩でしか表現出来ない早業。
殺陣の型。
人を殺める事だけに特化した武術。

眼を真っ赤に滾らせ、三成は再び咆哮する。
空へ、
何もない空の彼方へ。
哀しむように
懺悔するかの如く。
その様は妖怪、化物、怪奇、恐怖そのものだ。

そのまま三成は何の躊躇いもなく、突然自軍の兵士を幾人も切り付けた。

「あぁああああぁあああぁああ!!!」

そんな声が谺す。三成の声なのか惨劇を見た誰かの声なのか、分からない。
たった一瞬、
白刃の刃を剥き出しにして、
もはやその赤い眼が誰を標的としているのかさえ分からない。
違う。分からないのではない。
全てだ。
今の三成にとっては『眼に映る者全てが標的』だ。石田軍も武田軍も何も関係ない。

眼にも止まらぬ速さで人を切り付ける。
甲冑が何の意味も成さない一撃。
一人の生命を止めるには十分過ぎる。いや、過多な一振り。
その一振りが向けられているのは兵士だけではなかった。

「三成…!」

吉継はただ愕然としていた。
愕然としている事しか出来なかっただろう。重成でさえそうだったのだから。
吉継が彼の名を呟いた瞬間、三成は吉継にさえ切り掛かった。
薙ぎ払うような一振りが、まるで吸い込まれるように吉継をめがけて振るわれる。

「!」

だが、吉継を庇うように現れた重成がその一撃を相殺した。
流石に幾人も自軍を切り殺されて、いつまでも黙っている訳にはいかない。挙句の果てに吉継まで手に掛けられてしまえば、今後どうなってしまうのか知れた事ではないし、そんな将来は同時に想像したくもない。
だが凶王はそんな惨事を平然とやってしまう。
迸る火花はじりじりと刀身を焼いた。
勢いを相殺しても尚込められる力。それも相当な力だ。
三成が一歩踏み出せば、こちらは一歩下がって力の掛かりやすい間合いを測った。
足元の砂利が熱を持って削れるのが足袋の裏からでも分かった。
我を失っている三成を相手に、体力的に鍔迫り合いは長く持ちそうにない。勿論力の問題もあるが、耳鳴りがするような金属音から察して、得物さえいつ圧し折られるのかも時間の問題に思える
そんな状態でも重成は訴えかける。

「三成…貴様は二度と刑部の手を煩わせる真似はしないと誓ったのではなかったのか…!?」

紅い眼は殺意だけを撒き散らしていた。
瞼の隙間から覗くのはその一色ばかり。重成の姿さえその瞳には映っていない。
彼の瞳に映るのは『人』
殺すべき『標的』だけだ。
もはや言葉も届かない。力に押し負け、一歩重成が後退った。足元の砂と鎬が一気に削れる。
不安定な力の掛け方によって身体が軋み始め、背には汗さえ滲んだ。

「やめろぉおおぉおおおぉおおぉおおお!!!」

猛りにも似た声。甲高く、それでいて聞くものを震撼させる声。
声の発生源がこちらに向かって駆けてくる。
横目に紅色が見えた。槍に真っ赤な炎を迸らせた幸村だ。
何故幸村が駆けてきたのかは分からない。好機と踏んで飛び込んで来たのかと思ったのだが、彼の発した言葉がそうではない事を示している。
幸村はやめろと言っていた。
仲間割れする様が見るに堪えないとでも言うのだろうか。
そんな理由で修羅場に乗り込んで身を危険に晒そうなど、
確かに一介の将の行動ではない。
幸村の名を呼んでいたのはその忍の声だろうか。

武田軍の雄叫び。開戦を知らせる鼓舞の声。
乗り出した幸村を先頭に、紅い甲冑が波のように押し寄せてくる。
迅速に三成は反応していた。
我を失っている分、戦に対しての神経もいつも以上に研ぎ澄まされているのだろう。
そこまで理解した時、重成は唐突に刀を弾かれた。

「!?」

一瞬はとうとう刀が折れてしまったのかと思った。
だが実際は幸いにも違った。単純に三成が刀を凪いで、それにバランスを奪われただけだった。
だけ、ではない。
これは問題だ。
弾かれた力が強かったせいで、重成は頭から地面に叩き付けられた。
視界がぐらぐらと揺れた時には、既に目の前に三成の姿はなかった。
鈍い痛みが頭部全体を覆い尽くし、思わず呻き声を上げて五体投地してしまう。我ながら情けない為体だ。
尚刀を握った手が緩まないのは何故だろう。
考えるだけ無駄だ。単なる行住座臥の一環なのだから。
と、ここで重成は打ち付けた後頭部から広がるような形で、地面から生温い温度を感じた。
気味の悪い緩さだった。血だ。
だが自分のものではない事は直ぐに分かった。出血するにしては痛みが鈍かったからだ。
その血は三成に斬り刻まれた兵士のものだった。重成は積み上がった屍から広がる血だまりの上にのし掛かっていたのだ。
声が出なかった。こんなにも近い位置で屍に被さったのは初めてだったから。
白い髪が、白い羽織が、そして視界が紅くなる。
蹂躙の色に染まっていく。嗅覚が、人間の『中身』の臭いで麻痺する。
身の毛がよだった。後頭部の痛みがいつもより生々しく感じた。
足に力が入らない。まるで芯が抜けてしまったように動かない。
かつて毎日のように眼にしていた血だまりの上に落ちてしまっただけで恐怖を感じた。
何故だ。これまでの自分はその程度で臆する筈がないのに。

そうか。
恐怖を感じているのは過去の栄光じゃなくて、
作り出した自分の姿じゃなくて、
重成じゃなくて------
『私』か

人とも思えぬような咆哮と、猛虎のような激しい雄叫びが脳髄に刻まれる。

重成の意識はそこで途切れた。



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