ある凶王の兄弟の話2

□(下)
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懐かしい声が私を呼んでいる。何度も、何度も意識の外から呼びかけてくる。
空気を撫でるような優しい声だった。泥土と血に塗れたあの日から、私に掛けられるその声色は何も変わらない。
これは半兵衛の声だ。
懐かしくもどこか儚げで、
光の一筋さえ射さぬような奈落の底で、朧げに浮かぶ白い影は何度も私を呼び続けた。

「----◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎君-----」

その声は諱ではなく私を呼んでいる。私の周囲を囲む闇が声のする方向を阻んでいる気がした。
森林の中に落ちた靄のように、一筋の声に蓋がされる。
微かにしか聞こえないのに、自分の名を呼び続けている事だけは明確に分かった。
忘れられなかった本当の名前。
諱は自分を殺す為に自分で設けた鎖。本来の業深き自分を忘れぬ為の束縛。
母を殺めた罪を贖う為の、人を殺した罪を贖う為の、
そして二度と人を殺さぬようにと言霊を込め、人らしさを捨てる為に忌み名を名乗った。
だが今なら分かる。それは鎖ではなかった。
諱は愚かな己自身の姿を映し出す鏡だったのだ。

眼を閉じても開けても、見える景色はまるで同じ。手を伸ばしても、腕が視界に映らない。一寸先は闇。
このまま溶けて消えてしまえばいいのに。何故深い闇の中で私は息をしているのだろう。
望んで飛び込んだ闇の中が、徐々に毒素を帯びていったように苦しくなっている。
息苦しいのに、何故こんなにも必死に生きているのだろう
悲しい、悲しくて、苦しい。消えてしまいたい。
いっそ、
自分ではない自分を壊してしまいたい。

「-----■■■■■■君----」

小さな光の粒子。弱弱しく煌めく一筋の光は甲高い声で私の名を呼び続けている。
誘発されたように古い記憶が思い出される。確かに秀吉様に仕え始めた当初は、他人からその名で呼ばれていた。半兵衛様も、私をその名で呼び続けていた。
豊臣…いや、羽柴に拾われた当初、勉学の類を一切受けなかった私と三成は、実践として戦場に駆り出される前に書道や文書の紐解き方、兵士との手合わせに読書を毎日のようにやっていた。
半兵衛様も、時折私に与えられた部屋を訪れては、直接私に軍師の頭脳を披露してくれたものだ。
あの時が最も幸せだった。
依然、もう思い出せない感情ではあるが、確かにその頃の私は満たされていた。
時が流れ、三成と私は戦場へと駆り出される事になった。
初めから太閤は私達を手駒にする為に拾ったらしい。だが泥を啜るような窮地に立たされていた私や三成にとっては、命令が下る事すら有り難かった。
当初はそう思っていた。
初めて刀を握った感触はよく覚えている。柄巻を通して硬い茎(なかご)を握った感触。手に馴染む感覚。そして何より、人の命の重み。
斬り殺した民の生暖かい血と戦場で人を切り刻む度に湧き上がる死臭は、私の思考を狂わせ始めていた。
三成は当初から人を斬る事に罪を感じていない様子だった。幼い頃に虐げられ続けた『痛み』を知っているからだ。
更に言えば私達を救って下さった二方を盲信していたのだろう。太閤が蹂躙を必要とするなら、その手足になれる事さえ三成は光栄に思っていたのだから。
私も御二方を心から盲信し続けていた。君主こそが必ず正しいと思っていた。初めから、恩返しだけの為に動いているのではなかったのだ。
しかし命令される度に手に掛けた恨みもない者の断末魔で、私の心は削れていった。
太閤を冒涜した者でさえ、私は何処かで息の根を止める事に躊躇いを覚えていた。
痛みを誰よりも知っているのは私も三成と同じだった。だが他人の死は私という臆病者の背に重くのしかかる。痛みを誰よりも知っているからこそ、それを他人に与えるのが嫌で仕方がなかったのだ。太閤の命を受ける度に、私は恐怖で立ち竦みそうになった。
罪悪を覚えていた頃から、私は三成より弱いんだと自覚していた。こんな事を考えている時点で、既に私は弱者だったのだ。
人を斬る行為が悍ましいだなんて、兄弟にも、そして恩師にも決して言えない。言おうとすら思わなかった。恐怖を覚える自分が悪いのだと思い込んだ。
自分の感情など二の次だ。そんな事を主張出来る程の身分も選択もなかった私は、命令を受けるままに人を殺め続けた。
軍の名に恥じぬように、冷酷に振る舞い続けた。足の震えをひたすら堪え、蹲りそうになる足を奮い立たせ、心情が滲まぬように顔から表情の一切を消し、誰とも関わらないように殺意を振り撒いた。誰かにこんな心持ちが露呈する事を恐れたから。
敵対する者はなるべく苦しまぬように努めていた。そんな事をしている内に、私は表情一つ変える事なく太閤を冒涜した者は見せしめに肉片になるまで刻み続ける残虐な行為も出来るようになっていた。心の内ですまん、すまんと謝罪し続けようと、顔から表情消し去り、殺意を振り撒いておけば、私の心など微塵も滲まなかった。
やめろと叫び続ける私の脳裏と、淡々と惨忍な業を繰り返す身体。まるで私が二人、そこにあるかのようだった。だが止まれなかった。三成に後れを取らないように、我武者羅に戦場に没頭し続ける事しか出来なかったのだ。
私の思いとは裏腹に、技量だけは確かに積み重ねられていた。知り置かぬ内に他を圧倒し、白い髪や羽織に血を被る事さえなくなった。いつしか私たちは『佐和山の白狐は人を喰う』とまで噂された。周囲に臆されていたのだ。
私という存在が知れ渡ったのも、これが始まりだったろう。表情一つ崩さずに戦闘に没頭する様は、他人から見れば血に飢えた獣同然に見えたであろうから。
志同じくする仲間さえ、戦場で活躍する私達を讃えるでもなかった。皆、まるで私を化物でも見るような目で見ていた。
三成は周囲の眼や意見など一切の興味を示さなかったが、私は違った。私の心は臆病な人であったのだ。
故に仲間と視線を交わす度に肩身が狭くなった。
戦場で敵兵が私の姿を見ただけで尻餅をついて、まるで絡繰のように地面に頭を打ち付けながら命乞いをする様を見ると、私は人ではなくなってしまったことを実感した。
心を押し殺して命令に従い続けるあまり、私は身も心も獣(ケダモノ)の姿へと成り果ててしまった。
私は仏頂面の奥で悲嘆に暮れた。一つ、また一つと、私の心に罅が入ってゆく。
私に止めと言わんばかりの大穴を穿ったのは、肉親を自分の手で殺せ、との太閤の命令だった。
肉親を絶てば、私たちは本当に太閤が必要とする器になれる。と、傍らに立つ軍師は言った。
三成は父を、
そして私には母を殺すようにと、太閤は告げた。
父は同じく太閤に仕えていた身だった。だが父は死に打ち震える事もなく、素直に三成に首を差し出した。本当に太閤が欲するものを手に入れる為なら、己の死など安いものだ、と。私達を捨てた父さえ、太閤に心の底から盲信していた。
父が私の元を去る時、囁くような声で私に言った。

「■■■■。心を捨てろ。我が屍を踏み躙り、君主に仕え続けよ」

残酷な言葉だった。最後まで父は、親としての愛情も慈しみも、私たちに注ぐことはなかった。
そんな父に対して、母は大層死を恐れた。
母は死を齎す使者となった私を恐れ、夜な夜な屋敷から逃亡した。それを捕えて縛り上げるのも、彼女を殺せとの命を受けた私の任だった。
母は私に対し、しきりに命乞いをしていた。それも我が子を見つめる目ではなく、まるで化物を見る目と同じだった。
私にも、母が往生際悪く生に縋る人間に思えた。戦場で見た弱腰な兵士のそれと、立ち振る舞いが全く同じだったからだ。追い込まれた人の姿を幾度目に焼き付けた事か。数える行為も憚れた。
だけど、母にそんな惨めな姿をさせているのは自分だ。どうしようもなく、自分なのだ。
私はどんな顔をしてそのような肉親を見ていたのだろうか。いや、考えるまでもない。私の脳裏と表情は決別していたのだから。
かつての母は心優しく、天真爛漫で争いを好まない奥方だった。
私は彼女を逃がす権利を持たない。泣き付く事さえ決して許されない。この能面のような表情の皮を剥いでしまえば、私は恥晒しとなり、死を決めた父や三成の顔に泥土を塗る事になる。だが母の悲痛な表情を見る度に、心の臓を串刺しにされたような痛みを覚えた。
私は断頭台に連れ込んだ母の眼を布で覆い、猿轡を噛ませて、半ば処刑のような形で彼女の眉間に鉛玉を打ち込んだ。苦しまないように、脳髄の中心を狙った。それがせめてもの情けのつもりだった。
母は即死していた。苦しむ事もなく、あっさりと。
暴れる肉親の眉間を捕捉した時、私は自分が人の形をした化物である事を痛感した。

人の眉間を狙う自分の手は、震えの一つもしていなかったのだから。

三成は父の首を刈り、その首を門の前に飾り立てた。見せしめの晒首だ。
これによって私達は正式に小姓を名乗る事を認められ、周囲から身分一つかけ離れた特別な存在になった。
不思議な事に、その時は何一つ嬉しくなかった。
被っていた筈の能面は、私の表情そのものと同化していた。能面が私の顔になっていた。だから恐怖を感じない代わりに、嬉しい、楽しいといった感情も捨て去ってしまった。
私は眠るような表情で飾り立てられる父の姿を見て茫然としていた。
その時は門の真ん中に突っ立っていたというのに、門を潜る人々は私の周囲を避けて通っていた。
声の一つも聞こえなかった。ひそひそとした話し声も、何もかも。まるで空気そのものが私の半径から断絶されたように。
距離を空けて人々は通り過ぎる。
私は何を語るでもなく、茫然と、愕然としていた。
私達の誓いの証となる父の首、母の死。
これも私が望む君主の命。
だが私の胸を包んでいたのは喜びや幸福、充実感ではなく、罪悪感と喪失感、そして絶望だった。

その日の夜、私はとうとう丸腰のまま城を飛び出し、山野の中で叫をあげた。
狼のように猛々しい声で、喉を潰さんとばかりの勢いで月に向かって吠え続けた。
己で被った仮面に心が押し潰され、もう耐え切れなかったのだ。
大粒の涙が溢れた事を覚えている。
初めて浮かべた涙に、血の温度と同じものを感じた。
舌を噛み切って死のうと思った。今なら自らの心の臓を抉り出せると思った。
だが、父の遺した言葉がそれを許さなかった。
心を捨て、両親の死を踏み躙り、君主に仕え続ける。
それが、父が私に課した唯一の望みだった。
父は見抜いていたのだ。私が人らしい心を持つあまりに、苦しんでいた事を。
父は三成と同じで冷酷無慈悲な人だった。私は母に似たのだ。争いを好まない心優しき人間に似てしまったのだ。
父は見抜いた上で私にそのような事を言ったのだろう。
だから、残酷なのだ。
私は泣き濡れた後に激怒した。依然涙は止まらなかったが、私は確かに怒っていた。
三成と私を捨てたのは、父だ。
そんな父を恨めず、望みを聞き入れる事しか出来ない弱い自分が許せなかった。
三成はそのような父を殺せて清々としている事だろう。何故私だけがこんなにも苦しまなければならないのかが分からなかった。
考えても考えても、怒りと悲しみの矛先はいつだって自分に向けられた。人間らしい自分が、人間であろうとする自分が何より罪深いのだ。
私は大粒の涙を流して山野に叫びを轟かせ続けた。
破壊衝動のままに頭を掻き毟った。
自分が憎くて仕方がない。
自分が愚鈍でどうしようもない。

やがて、激情が鎮まってくると共に空を見上げた。
散々荒れ続けた先に、ぽっかりと胸に大穴が空いた気分だった。
五体を放り出して倒れる屍になったような感覚。
私が激情のままに吠えたのは、これが最初だった。

やがて私は自らの手で自分の心を壊すことにした。冷酷に命に従い、二度とこんな罪悪に囚われぬように命を取らない。人の死に罪悪を感じてしまう自分にとっては最善の方法だった。
そして、罪悪に囚われた自らを殺す。
忌むべき自分を忌むべき名で呼べばいい。
冷淡であれ。
冷酷であれ。
冷徹であれ。
私は------重成だ。

重成は山野に■■■■を置き去りにして城に向かった。
重成は■■■■の名を呼ばれる度に、「誰かと勘違いしている」と答えた。確かに重成の目の奥には、かつてのような光は無かったのだ。
曇りのない瞳の奥には深淵の闇が映っているかのように。
かつての家臣はこう囁いた。

■■■■は死んだのだと、

彼の技量を知る者は、気に障って斬られる事を恐れたのか、何の詮索もしなかった。
重成は太閤にかつての自分が死んだ事を告げた。
変わり果てた彼の姿を前に、太閤は満足気に大きく頷いた。人としての慈悲を捨てた三成や重成こそ、太閤の求めていた人材だったのだ。
重成は影となった。実態がないのに、確かにそこに存在する気味の悪い人間。
影で暗躍し続ける武器。要点を摘み、敵味方問わず犠牲を最小限に留める。
しかし心の壊れた重成は、そんな行為を善意で行っているのではなかった。善意も悪意も、一切を捨てたのだ。ただ淡々と他を生かした。
軍師はそんな彼の所業を唯一見ていた。見ていながらも、何も重成に口出しはしなかったのだ。彼が生かしていたのは命であって、生かした人の『魂』ではなかったのだから。
こうして■■■■の代わりにやってきた形となった重成は、

三成の事を『兄上』と呼んだ。




私は手を伸ばした。依然自分の腕は闇の中に溶けて見えない。置き去りにされたまま、何かに触れる事すら出来ない。
遥かに遠い光に見えた。まるで星のように、手に取れそうで掴むことはままならない。
もどかしくはなかった。怒りも感じなかった。ただ光に届かない事が酷く悲しいのだ。
造りだした己の藤色の闇が邪魔をする。
重成が邪魔をする。諱が私の醜い姿を映し出す。
私の名を呼び続ける声が心なしか私の愚かさを責め立てているように聞こえた。

苦しい、
苦しい、
苦しい、

誰か

「助けてくれ…」

              
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