ある凶王の兄弟の話2

□器の暗示は
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一日が過ぎた宵。辺りが完全に暗闇の中に沈んだ子の刻。
甲斐の武田城に近い山郭の中で、石田軍は野宿する事になった。
大将が重傷を負った今、三成の容態が安定するまで遠出は出来ない。
長い間、医師数名と三成が医療具を積んだ馬車に閉じ籠っていた。一日という時間が經過した現在もそれは続いている。
刻々と時間が過ぎる事と比例して、兵士の不安や疑心も増していた。
石田軍は兵士の結束力を失い、あんな一件があっても尚三成を信頼する兵と、恐れをなして逃げたいと喚く兵とが論争していた。
一方で吉継は新たな策略の考案に追われていた。武田軍の護衛が得られないと仮定した上での考慮は、吉継の頭脳を持ってしても至難らしい。家臣数名と案を出しては消してを繰り返す。それを馬車の中で行い続けている。仮にそれがなくとも、三成の暴走が相まって石田軍は衰弱している。兵士の数十名と家臣の一人を失ったのはかなりの痛手だ。その穴をどう埋めるかの案や、纏まりを失ったこの軍を再び纏め直すかの提案も含まれているのだろう。意見の交換は長時間に及んでいた。
吉継は家臣の中でも群を抜いて思慮深い。それらだけではなく、常に今後の様々な可能性を虱潰しにするように策を練る。最悪、三成がここで命を落とす可能性も考えているのかもしれない。吉継はそういう点では冷酷で、残虐な人間だ。己が怪我を負う事を承知で狂犬の手綱を目一杯に引っ張る思い切りの良さを秘めている。それが吉継の不気味さであり、長所なのだ。

不自然な程様子に変化が見られないのは重成だった。三成については身を案じるのはおろか、何も言わず、身に付いた血を慣れた様子で洗い流した後は山野の景色を眺めに行ったきり、拠点には姿を見せていなかった。
山野に行く直前は馬車に籠る前の吉継と少しばかり話をしていた。それは論議に参加せよとの誘いだったが、重成は断っていた。
「今の私は刑部のように冷静な判断が出来ない。返って皆を混乱させるかもしれない」と、そう言い残したきり、一人で放浪してしまったのだ。
自分の兄弟が生死を彷徨っているというのに、些か彼は焦燥に欠けていた。まるでいつもの行動を繰り返すように端然としている。
重成が黙って姿を消す事はこれまでにも度々あったことだ。家臣や兵達は、さして重成の姿が見当たらない事については口出しをしなかった。
誰も彼の本心を知らないのだから。

重成は小高い丘の上にいた。
森の開けた場所で、甲斐の景色を一望出来る場所。
武田軍が日頃からここを訪れていたのだろう。人の足が作った道を辿って行き着いたのが、このような見晴らしの良い場所だった。
今宵は満月。
夜だというのに、月明かりだけで甲斐を見渡せる程までに、そして背後に影が出来る程までに月は眩しく太陽の光を反射していた。
重成は甲斐を見下ろさず、月を見上げていた。空の上に浮かび続ける、あの月を。
月に叢雲、花に風、とは言うが、今宵はそんな諺を一蹴した光景が広がっている。空には雲の影すら見当たらず、まるで澄んだ湖畔のように深く、美しい煌めきを讃えている。
心地の良い風が頬を撫でた。サラサラと揺れる背後の草木が風の流れを浮き彫りにさせている。琥珀色の双眸に星の小さな煌めきが映る。輝く石を宿した原石のように、情景をその眼に宿していた。

「……」

澄んだ瞳の奥で何を考えているのか、その多くを能面のような顔貌の奥底に隠した重成は、飽きもせずに月を眺め続けていた。表情の一切を消し去り、心情を滲ませる事すらなく。また殺意さえ感じさせず、完全に木々や空の静けさに同化していた。
当の重成はいつもとは違う感覚を覚えていた。
それは天涯の孤独。虚しさ。空しさ。
その昔、両親を弑(しい)し、一人山野の中で感情を吐き出した後に似た感情。あの時も美しい満月の夜だった。
こうして一人で月を眺めるのも、幼き頃大阪城にいた頃から、月が美しい日は毎回のようにやっていた事だ。
近頃は綺麗だと感じていた月を眺めると空しさを感じる。たった一つ空に浮かび続けて、孤独だな、と思うのだ。
美しくも、孤独。
まるで、どこぞやの凶王と同じだ。

だとすれは、私は月の『裏側』
人に見られず、光に触れる事もない。目視は出来ないが、確かにそこに存在している。存在してこそ月があり、それを美しい円形に見せている。天文学の類は異国文書でしか見た事がないが、少なくとも月が円ではなく、球体である事は知っている。単に興味本位で手に入れた知識ではあるが、

「月満つれば即ち虧(か)く」

重成は一つ瞬きをした。この諺と同じような意味を持つ言葉を思い出す。
平家物語の有名な文頭である。

「…祇園精舎の鐘の声」

すぅ、と、重成は息を吸う。頭の中に浮かんだ詩をそのまま口にするように、淡々と小さな声で続けた。

諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色。盛者必衰の理をあらわす。驕れる人も久しからず、ただ春の世の夢の如し。猛き者も遂には滅びぬ。偏に風の前の塵に同じ

今、絶大な勢力を蓄えつつある西軍も、東軍も、いずれ衰弱し、弱体し、日ノ本の中へと淘汰して消えてゆく。かつて栄えた平家一門が滅ぶのと同じように。
夏の終わり。九月の風。
約束の地が提示される日も近い。西軍と東軍がぶつかれば、多くの血と涙が流れる事だろう。

その日が来た時、私は一体どうすればいいのだろうか。
三成の導きと采配の先に何が待っているのかを傍観しているだけなのだろうか。
それとも大軍を相手に、再び人を切り刻まねばならないのだろうか。

もう二度とあんな光景を見たくないと何度も願っていたのに、戦や血とは腐れ縁で繋がっている。重成の思いとは裏腹に、常に三成や重成の周囲には戦が纏わりついている。石田の血は、そういう運命の中に立たされているのだろう。石田正継も、その妻となった岩田氏の瑞岳院も。
だからこそ石田氏は生まれながらにして冷酷無慈悲な人らしさを失った狡猾さを持っている者が多いのかもしれない。しかし母方の血を色濃く継いだ重成にとってはあまりにも残酷な運命だった。宿命に罪悪を覚えるなんて、刀も握った事のない肩書だけの武士が切腹した人間の介錯をさせられているようなものだ。

ならば、少なくとも私は運命に抗ってみせる。
この先に佇む大一番の一戦を、誰一人として手に掛けず、生き延びて見せる。
例え敗北したとしても。必ず。

重成は踵を返し、石田軍の滞在する場所への帰路を辿り始める。今更だが、流石に時も遅い。一日を跨いでしまえば、吉継に何を言われるのか知れた事でもない。
一歩森に入れば月の光は完全に森が塞いでしまう。だが夜目の利く重成は視界の悪さなど微塵も気にかける事無く進んだ。

暫く進めば、やがて先に即席で作った松明の明かりが見えてくる。
明かりに向かって進んで行くと、馬車に辿り着く道中に見張りの兵士がいた。夜分遅くまで、夜襲を警戒して目を光らせ続ける兵士だ。
彼は重成の存在に気付くなり、慣れた様子で頭を下げた。

「重成様。そちらにおられましたか。先程軍医の者が重成様を探しておられました」

重成は小首を傾げた。

「軍医が?」

「三成様の容態について、お伝えしたい事があると伺いましたが」

重成は僅かに眉を顰めた。軍医に呼ばれたという事は、訃報か朗報か、そのどちらかだ。
兵士は二つ先にある馬車を指差しながら続けた。

「あの荷馬車の隣にいる者です」

確かに馬車の隣には、頼りない足つきで立っている軍医が一人いた。疲れの色が遠くからでも見て取れる程に背を丸めていた。
おぅい、と、見張りの兵士がよく通る声で一声掛けると、指を差されていた軍医が振り返って重成の姿を見ると、はっとした様子で駆けてきた。
中年の手前程の顔立に痩身で、近くで見てもかなりやつれた様子の軍医だった。恐らく軍医の中の長だろう。不眠不休で三成に医術を施し続けていたのか、目の下には小さく隈が浮かんでいる。

「お探ししておりました。重成様」

窶れた外観でありながらも、その軍医の声と表情は生き生きとした達成感に満ち溢れていた。
声の調子から、彼が今どんな心情かは手に取るように分かる。重成は少し会釈した後に言った。

「申し訳ありません。して、兄上の容態について私に何用ですか」

「御察しの通り、安否をお伝えしようと思いまして」

軍医は一呼吸置いた。

「三成様の肺に刺さっていた肋骨は全て取り除きました。あれだけ酷い容態でありながら喀血で済んだのが不思議な位です。重成様がおられませんでしたら、最悪の場合…死も否定出来ませんでした」

「そうでしたか。判断が誤っていなかったようで安心しました」

「現在は容態が落ち着き、薬の影響もあって深く眠っておられます。どうか、御顔だけでも御覧になりませんか。さぞ貴方様も心配された事でしょう」

「お気遣い感謝します。ですが私が患者の傍らにいても医師の邪魔になるだけです。その報告だけで随分と気が楽になりました。本日はもうお休みになって下さい。貴方は随分と酷い顔をしておられる」

「有難きお言葉。閂は外しておくように伝えております。気が変わられましたら、いつでもあちらにお越し下さい」

そう言い終えると、軍医は一礼して去って行った。
その背を黙って見送る重成。心なしか、彼の表情には愁眉が宿っている
ようにも見えた。
安堵の為の愁眉なのだろうか。
一部始終を聞いていた見張り兵が、重成の顔を覗き込みながら言った。

「良いのですか?様子を見に行かれなくて」

重成は兵に見向きもせずに言葉を紡いだ。

「ええ。眠らせておきましょう。負傷しているとはいえ、兄上にとっても良い休息となる筈ですから」

そう重成が言い終えた瞬間、遠くの方から松明の火が爆ぜる音と共に焦燥を大袈裟なまでに孕んだ大声が聞こえてきた。


「重成様あぁぁあああああああ!!!大変ッ!大変です!!事は重篤にございます!!!」


     
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