ある凶王の兄弟の話2

□キリサキキョウキ
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脳髄の奥で馴染みの感覚が、ぽつん、と生じた。

奥底から生じる何かが、自ら築き上げた皮を突き破り、身体が元に戻ろうとしている。

重成は波のように押し寄せてくる瘴気に身を任せる。器から溢れ出るものは、もう抑えが効かない。同時にこれ以上抵抗してはならない。そんな気がしたのだ。

不思議と、受け入れる事に恐怖はなかった。あれだけ恐れていた事の筈なのに。
哀しみも、不安も、感情も、言葉も無い世界。そんな世界と共に私が帰ってくる。
この闇は操れる類のものではないと感じた。
今迄扱っていた闇とは、質が異なる。
身体よりも奥底で、丹田よりも深い。『魂』から溢れ出る闇。
土砂や雪崩が山野を飲み込むように、それはすぐに私の心を覆い尽くした。



「■■■■■■■■■■■!!!!!」

闇を受け入れた瞬間、いきなり風景が変わった。
私は眼を見開き、久秀を見据えた。久秀がはっとした顔でこちらを見た直後、素早い動きで私を掴む腕を離すと同時に距離を置いた。
自由になった私は、つかの間、空に向かって咆哮した。言葉を紡ごうとしたのに、何も頭の中に浮かんでこない。言葉も、あのもやもやとした気分も、何も感じない。
視界が人のものではなくなっていた。色彩が消え、物の輪郭が濃淡で浮かび上がる灰色の世界で、音と火薬の匂いが異様な存在感をもって迫ってくる。四肢からは押さえ込んでいた瘴気が溢れ出て、私の身を黒く染め上げていた。見上げた空は淀んだ雲が満月を食み、視野の端には黒い霧がいくつも見えた。
私は何も持たずに久秀に向かって突進していた。私は何かを叫んでいる。まるで、獣のように。

久秀が宝刀を振り上げた。頭で考えるより先に身体が動く。私は打ち下ろされた宝刀を、右手の甲冑で受け止めた。金属が削れるような不快な音が一閃する。久秀の得物は受け止めてはならないと踏んていた筈なのに、意中にあった思惑は全て瑣末なものに思えた。
左手を鉤爪状に構え、久秀の顔を引き裂こうとする。寸での所で、久秀が私の左手を掴んだ。
受け止めた宝刀が引火して燃え上がる。火薬を被った甲冑が焼けるように熱い。そんな熱も、どこか遠くに感じる。身体が、痛覚では怯まない。
梟雄が放つ異様なまでの冷ややかな威圧感が、久秀の全身から発せられている。
その威嚇に似た圧迫感に対し、不思議なほどに恐れは感じなかった。
寧ろ唐突にその喉仏を噛み砕きたいと思った。
鼻の奥から脳天へ、鉄が焼ける刺激臭が突き上げてくる。
黒い光の向こうを見ているような幻が脳裏に閃いては、消える。くらくらするような凶暴な衝動が我が身を支配している。
いつかと同じように、自分が二人いるんだと感じた。
目の前の「もの」を引き裂きたくて堪らない自分と、そんな衝動に駆られている自分を、他人事のように傍観している自分。
ただ共通して感じるのは、蟀谷の脈打つ感覚と、耳の奥で血が流れる音。
遠い谺のような脳髄の奥から、小さな声が聞こえてくる。

(殺すな、殺すな、殺すな。相手を屠れば、私は何も------)

小さな声を、瘴気の雑音が掻き消す。耳を傾ける事も億劫だった。

「それが卿の、『字』(あざな)の姿か」

刺すような火薬の匂い。私は何かを言おうとするのに、やはり何も言葉が出てこない。忘れてしまったのではない。湧き上がる黒い衝動が私の人らしさを覆い隠してしまっている。辛うじて発せられたのは獣染みた猛りのみだった。
右腕からじわじわと、私の五体が炎に包まれる。何かの拍子に、久秀は私の全身に火薬を振り撒いていたのだろう。身体が燃え上がっているというのに、痛みに怯む事も、熱に臆する事もない。

炎よりも紅い、紅い光を発する瞳で、強く久秀を睨み付ける。
久秀の眼が一瞬だけ揺れた、同時に炎に包まれた私から距離を置こうと、私の腕を離した。
しかし、私は逆に久秀の腕を掴んだ。距離を取らせまいと、強く、強く掴む。
刹那だが、久秀の表情に焦燥と苦痛が浮かんだ。宝刀を振り下ろし、私の左腕を切断しようとしている。私はその斬撃を右手で受け止め、掌から血が溢れた。灰色の世界では、私の血は黒く見えた。
久秀が指を構えている。私ごと地面を吹き飛ばすつもりらしい。流石に私は腕を離した。
距離を置く久秀。丹田から無限といわんばかりに溢れる瘴気が身を焼いていた炎を鎮火させた。

「何と、凶暴な…」

久秀は嘲笑していた。しかしその瞳の奥はぴくりとも笑っていない。獲物を見つめる狩人、将又冷酷にこちらを威圧する梟と同じに見えた。
私は緩慢な動きで足元に落ちていた刀と銃を拾い上げた。私が武器に触れた瞬間、銃身と刃渡りが真っ黒に染まる。白い光沢を放つ武器は、光をも吸い込むような黒に。

全身が痛い。ずきずきとした痛みが身を巡り始める。火傷による痛みではない。内側から何かに身体を破壊されていくような痛み。言い知れない妙な感情と瘴気が、私を蝕んでいる。

「■■■■■■■■■■■!!!!」

「痛い」と私は叫んだ。久方に痛みを嘆いた。こんな事を叫んでも、誰も助けてはくれないと分かっているのに。
何を思っても肉体は従わない。益々視野に映る霧は濃さを増している。火粉と共に、私の身体から溢れ出す瘴気が空を舞っている。薄く、ヒラヒラと宙を舞い、地面につく前に消えて無くなる。私にはそれが、鴉の羽根に見えた。

久秀の指が、パチン、と、軽い音を弾き出した。私は構わずに走り出す。足場が次々と弾け、尖った破片が腕や足に突き刺さる。構わずに刀を振れば、刀身から湧きだした黒い瘴気が、質量を持って久秀に襲い掛かった。
宝刀を下から上に突き上げ、軽々と黒い斬撃を砕いて見せる久秀。
得物を振り切ったままの久秀の懐に入り、咽喉を目掛けて刀を振るったが、久秀は身体を少し逸らしてこれを避けた。
再び耳殻に響くフィンガースナップの音。パチパチと視界が眩んだと思えば、目の前は炎に包まれた。
私は瘴気を発して炎に対抗する。恐らくこれは、周囲の空気を取り込んでいるのだろう。瘴気を浴びた炎はその勢いを失ってゆく。
炎の明るさが薄まった視界に、久秀の姿を捕える。相変わらず、張り付いたような笑みを浮かべていた。

「まるで孤高に喚く『鴉』だ」

上からの婆娑斬りを受け止める久秀。受け止めるというより、受け流しに近い。しかし唐突に反撃に切り替え、刀の棟を削るように宝刀を滑らせ、そのまま私の顔に向かって切り上げるように薙いだ。
すぐに私は顔を引いた。宝刀が頬を掠め、薄皮を切り裂かれる。視界に映った私の黒い血。鼻先を擽る火薬の匂い。
久秀が左手に火薬を持っている。撒かれる前に、私は棟で久秀の足を払った。身体の軸を崩された久秀は、火薬を取りこぼした。同時に久秀も私も、同等の火薬を被った。

「…!」

自分も火薬を被った事により、迂闊に着火が出来なくなった久秀は、一歩引いて間合いを取った。
私はその間合いを詰めず、久秀の宝刀に銃口を向けた。私の意図を読んだのか、久秀が大きく目を見開いたのが見えた。

「ほう」

そんな動揺が垣間見えたのも、一瞬だった。すぐに動揺を消し去り、薄い笑みを貼り付ける。
私は間髪入れずに引き金を引いた。しかし、久秀は最低限の動きだけで弾を避けた。

「銃弾の熱で、私の火薬を利用しようとしたのかね。いや全く、頭の回る獣だ」

遠い。
目の前で喋っている筈の久秀の声が、光景が、とても遠く感じる。なのに、身を巡る痛みはやけに生々しくて。
身体を動かす度に、内側が抉られているような気がした。だけど立ち止ってしまえば、その痛みに蹲ってしまいそうで。
心身は進退両難に陥っている。頭のどこかでは理解していた。
が、『絶望的』な状況と自分に対して、恐怖は何もなかった。胸を覆い尽くすのは、まるで自然と一体になったような開放感。人の器を超越してしまったような放恣。

「■■■■■■■■■■■!!!」

だが、
瘴気に包まれた我が身は、
魂を剥き出しにした私は、
「助けて」と、
「苦しい」と、
「痛い」と、
言葉にならない声で叫び続けていた。

「流石は数多の一軍を殺戮に追いやった、時間に消えた鬼だ。その刀からも、血油の染み付いた匂いが漂ってくる。一体幾人を切り捨てたのか、卿は覚えているかね」

返答は期待していないらしく、すぐに久秀は言葉を続けた。

「だが、妙だな。姿形は魑そのものだというのに」

私は、前が見えずに蹲った。
声が聞こえずに俯いた。
周囲の色を識別出来ずに項垂れた。
私はどうなっている。
私は今、どんな顔をしている。
私は今、何を嘆いている。
何を叫んでいる。

「卿は悲しい眼をしているね」

音を立ててどこかの灯篭が崩れた。どこかの火の粉が爆ぜる。辺りが無彩色に囲まれ、黒に縁どられた灰色の中で、私は顔を持ち上げ、火花を見た。
朧げに浮かぶ光は蛍のように、浮かんでは虚空の中に消えてゆく。
幻想のような風景の中で、ただ一人、孤独に浮かび続ける私は
何を悲しんでいたのだろう。

「!」

はっとした瞬間、久秀が間合いを詰めてきた。
右から左に、宝刀が薙がれる。私はそれを伏せて避けた。
続く二撃目は宝刀を切り上げるように振るわれたが、銃身を滑らせるようにして軌道を逸らす。同時に身体を回転させ、遠心力を乗せて刀を振るった。
久秀はほんの少し身体を逸らして避ける。刀の射程を読んでいるようで、必要最低限の動きだけで躱している。長期になればなるほど、久秀は相手の癖や動き、武器の扱いを記憶し、確実に自分を優勢に導いているらしい。久秀の表情は、徐々に冷静を取り戻し始めていた。
黒い衝動に身を任せてしまった私は、久秀がそうしている事に気づけようとも、対策にまで頭が回らない。
拙い状況だ。と、感じる情緒が欠落している為か。
再び宝刀の斬撃が振るわれる。火薬に塗れた一振りは、私の鼻先を掠めた。続く二撃、三撃、四撃を、私は軌道を逸らして避けた。だが斬撃を受け止める度に、私の身体には徐々に傷が増えた。痛みがないせいか、危機感は微塵も感じない。そんな自分を奇異に思っている自分もいた。
ただ、そろそろ限界が近づいている。心身の限界だ。己の闇に身を喰わせ続けた、その代償が今降り掛かろうとしている。
私は叫んだ。悲鳴ではない。嘆きでもない。全霊を以っての咆哮だった。

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■!!!!」

私は久秀の斬撃を躱す事も、受け止める事も止めた。同時に刀を打ち捨て、久秀の胸倉に手を伸ばした。
防御を捨てたせいで、容赦ない斬撃が身を切り刻んだ。肩、腕、胴、腿、胸。右手を伸ばした先で、私の血が宝刀の軌道を辿るように舞い散った。どれだけ切り刻もうと怯まない私に対し、流石の久秀も動揺を露わにした。至近距離で私を刻む久秀の城郭に、黒い血がいくつも付着した。

「…!」

伸ばした右腕が、やっと久秀の胸倉を捕えた。間髪入れずに、私は久秀の蟀谷(こめかみ)に銃口を当てがった。距離は零。胸倉を捕えているせいで、久秀は避ける事も出来ない。
それなのに、まだ久秀は笑っていた。

「             」

久秀の唇が動いている、何かを言っているのだろう。もはや私には、声も聞こえない。
視野が闇に呑まれようとしている。その前に、その前に、私は引き金を引かなければならない。なのに、
引き金を引く指に力が入らない。銃が鉛のように重い。
やっと久秀を捕えたというのに。全身に力が入らない。血を失った事も相まってか、指先を動かす事すら出来なかった。
動かす所か、震えている。震えているのではない。痙攣しているのだ。私は闇を解放した時点で、とうに限界という帳を超えていたらしい。人の身体が壊れ始めている。
ガクガクと膝が笑ったかと思えば、私はその場に崩れ落ちていた。
灰色の狭い視野に映ったのは、私を見下ろす久秀の姿だった。


       
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