ある凶王の兄弟の話2

□西から登る月
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鈍色の雲が徐々に明度を上げ、闇に溶けていた辺りの光景がうっすらと浮き上がり始める。
群青を帯び始めた雲が、葉を枯らせて痩せこけた木々を影絵のように見せていた。
歩く度にガサガサと音が鳴る。足を引きずっているせいで何度も石に躓いた。元より凹凸の多い獣道に何重にも落ち葉の層が被さり、どこに何が落ちているのかも見当がつかない。
足袋の裏で、水分を含んでぬかるんだ木の葉の温度を感じながら、陣地に向かってただ歩く。
今頃、兵士は大騒ぎしている事だろう。要となる総大将も、その兄弟である武将さえ忽然と姿を消したのだから。幾人かその様を見ていた軍医や見張り兵共々、将軍の怒りを買っているに違いない。きっと吉継も叩き起こされているだろう。
迷惑を掛けたくないと、単なる小火で済まそうと思っていたのに、結局はこうなる。嘆かわしくて殆呆れる。
頭の隅で取り留めもない事を考える。どんな事でも思慮していないと眠ってしまいそうだ。
寒い。湿気に少ない体温を奪われる。もはや滴っている血が氷のように冷たく感じた。全身から、氷が湧き上がっているようで気味が悪い。

「未だ起きているのか」

ふと三成が声を掛けてきた。正澄は一つ間を空けてから答えた。

「…暁も相まって、瞼が重い」

「耐えろ。今意識を手放せば、二度と戻って来んぞ」

「分かっている。自分の身体だ。終焉、くらい」

「貴様にここで死なれては困る」

「野たれ死ぬのは御免だ。御前とて寂しかろう」

「ふん、誰の分際だ」

「誰だろうな。分からんが、」

正澄は間を置くと、溜息を吐き出すように言葉を続けた。

「そんな気がしたのだ」

御前は悲しまずに、寂しむのではないか、と。
何せ三成は『哀しみ』の中に生きているのだから。
三成は鼻を鳴らした。

「死にかけの分際でよく舌が回るものだな」

正澄はそんな皮肉に対し、力なく笑った。

「戯言だ。私に真意は分からん。御前の一番の理解者は、私ではなく刑部だから」

「何故そう思う」

「御前が私を理解出来ない事と同じ理由だ」

「私と貴様に大差はない」

「…言ってくれるな。凶王」

「貴様は、私よりも臆病なだけだ」

刹那
正澄は驚きよりも愕然が上回ったせいで言葉をなくした。依然、表情に出す事は出来なかったが、正澄の脳裏は思考を止めた。
三成は最初から知っていたのだ。
正澄が仮面を被った理由、人を殺めない理由、諱を使った理由、そして、心の内さえも
それが全て、臆病である為の偽りなのだと。
正澄が驚いている事を察したのか、三成は言葉を続けた。

「覚えておけ弥三。臆病は、恥ずべき事ではない」

着実に一歩を進めながら、
兄を背負いながら、
気丈に前を見据えながら綴った。

「最も愚かなのは、死を恐れるが為に他人の犠牲を積み重ねる利己者だ。だが臆する者とは前者に非(あら)ず、痛みを知る者だ。傷付けずとも人の痛みを解せる貴様が哀哭もせずに凶器を使役する様は、この眼には嘸(さぞ)哀れに映った。だが、この先に待つ戦には貴様の力が必要だ。決戦が集結した暁には、武器を捨てろ。目の前の敵を屠る為でなく、繰廻し難き武器を捨てる為に、生きろ」

正澄の胸を埋め尽くしたのは、感じた事のないような感情だった。堰き止められていた表情が、忘れていた想いが、顕在意識が知らなかった感情が芽生えたかのような、
足元の光景を焼き付けているだけの瞳から雫が溢れる。これが涙なんだと気付いたのは、目の前が霞んで見えなくなった時だった。
溢れる血さえ凍り付いたように冷たくなった身体の眼に滲んだ涙は、人の温もりに溢れていた。
胸の内が熱くなる。きっと自分の殻に閉じこもっていたのは、正澄の方だったのだ。
三成は初めから全て気付いていた。剰え武器を無理に握っている事すら。
何も分かっていなかったのは、こちらの方だったのだ。三成には分からないと勝手なレッテルを貼り付け、勝手に仮面を被り、勝手に苦しんでいたのだ。
自分は何て愚かで、惨めで、卑下し始めてしまえばキリがない。だけど胸を満たすのは自分に対する怒りや軽蔑ではなく、兄弟に対する深い謝罪の念だった。
全て分かっていたなら、三成も心苦しかったに違いない。望まない武器を自ら握る正澄の姿は、自分を殺して諱を名乗る姿は、彼の眼には死んでいるように見えたのかもしれない。
それを思うと、陳謝に胸が一杯になる。侮蔑の愚だ。

これが、誰かから自分を解されるという事なのだろうか。
自分を理解出来るのは自分だけで十分だと思い込んでいたのに。
感じたことのないような優しい激情で胸が満たされて、それが涙となって頬を伝う。
言葉が出てこない。ずっと、幼き頃から胸の内に抱えていた闇が晴れていくような気がした。
横隔膜が跳ね上がって言葉を発しにくい。堪えてしまえば喉が張り裂けんとばかりに痛む。
あぁ、それはこういう事だったのか。確かに痛い、苦しい。だけどどこか、心が解放されたように心地良い。
流れる涙に嗚咽するには、少しばかり大人になり過ぎてしまったようだ。

「…あ、ありがとう、三成」

絞り出すように紡ぎ出す事で精一杯だった。単調な言葉しか浮かばない。私の声色は初めて感じた暖かさに打ち震えていた事だろう。

何も言わず、黙々と前を進み始めた三成。
彼の額に滲む汗が顔を伝って地面に落ちる。そろそろ一歩を踏み出す動きも辛くなってきたのだ。三成が声を掛け続けてくれた事さえ、既に並みの人間であれば不可能だ。何しろ三成は昨日、真田の一件で深手を負ったばかりなのだから。
駆ければあんなにもすぐだと思っていた道がとても遠く感じる。まるで悪戯に道が伸びているようだった。そう感じるのは、歩幅が狭いせいか、自分の脚で歩けていないせいか。

正澄は擡げた首を上げる動作も出来なかった。まるで全身に鉛でも圧し掛かっているかのように身が重い。三成の肩から伝わってくる振動も、やけに遠く感じる。曖昧に、脳裏に靄や霞が掛かっているかのような、そんな気分だ。
涙で滲んで物の形を捉えられなくなった視界も、どこか遠く思えた。絵巻物をだらだらと見ているように感じる。鈍る五感の中で、唯一音だけが鮮明に伝わってくる。濡れた草を踏みししめる雑音に紛れて、雀が暁を告げる唄を歌っている。最も近く感じるのは、三成の鼓動。一定に跳ねる命の音。
死人の最期に残る感覚は音だと聞く。そんな事が今更思い起こされる。正澄の魂は、自らの停止を他人事のように思っているのだろう。他人だとも。肉体とは魂の墓場なのだから。
それともこれは、甘んじて死を受け入れようとしてしまっているのだろうか。

足取りは徐々に重くなっている。だが確実に前へは進んでいた。苔生した木々に宿る鴉がこちらを見ている。森の中に溜まった湿気のせいか、気付けば足元は霞がかっていた。


暫く進み続けると、幾人かが騒ぐ声が聞こえてくる。暁の光と共に、人工的な松明の明るみが木々の隙間から見えた。

「見ろ。屯はすぐそこだ」

「…」

背負い込んだ正澄から返事はなかった。相槌も、声に対しての反応もない。
三成が正澄に目を向けると、彼は眼を閉じたまま動かなかった。元より血を流し過ぎて血色の悪い顔色故に、命があるかどうかの安否は確認出来ない。
まさか、と、不安が胸を掠めた。

「目を開けろ。もう、直ぐだ」

不安を振り払うように言うと、三成は再び歩く。消耗が激しい今、それ以外にできる事はない。
兄が死ぬかもしれない。死んでいるかもしれない。そんな焦燥に駆られて気が急く程に足が縺れそうになる。
嘲笑うかのように後方で鴉が啼いた。死人を担いだ死にかけの武士が歩いている。そう言って笑っているように聞こえた。
麓に近付いた時、とうとう三成は石に躓いて倒れ込んでしまった。
その音に気が付いた見張り兵の幾人かが、二人の姿を確認した途端に悲鳴を上げた。

「み、三成様!重成様!?」

まるで信じられないものを見たような声を聞いた兵が、続々と集まってくる。泥と血に塗れた二人の姿を見た兵達は絶句に駆られ、端々で叫んだ。
三成は駆け寄ってくる兵士の手を振り払いながら言った。

「早急に弥三を医の許に運べ。私は、その後で良い」

三成は息も絶え絶えに言い放つ。彼らが何をしていたのか、事情は一切分からないが、徒ならぬ事態を勧告している事は聞く者の耳にも、見る者の眼にもよく焼き付いた。
焦りのせいか、返事は疎らにしか返ってこなかった。皆、返事の前に迅速に行動に移る。
2、3人の兵士が正澄を運ぶ。徒然、正澄は眼を閉じたまま動かない。死人のように冷え切ったその身体に触れて、驚く者もいた。
その様子を目の当たりにして、三成の前にしゃがみ込んでいた家臣と思しき男は独り言のように呟いた。

「本当に、彼の方は生きておられるのでしょうか」

「分からん。…だが、」

曖昧模糊な返事を他所に、三成はよろよろと状態を起こしながら続けた。

「彼奴がこんな所で死ぬような弱者なら、私が斬滅してやる」

「…えぇ、重成様は弱卒では有りませぬ故、信じましょうぞ」

三成の志を幾許が察した男は頭を下げた。どこからここまでやてきたのかは分からないが、少なくとも酷く消耗する程の場所から、自らの兄弟を運んできた事は分かった。

「三成様もお休み下さい。今の貴方は過労で酷い御顔をされている。此度重成様を救われた事、さぞ吉継様もお喜びになりましょう」

雲の隙間から、朝日が差し込んだ。依然、明るさは雨雲に覆われて伺えないが、ようやっと朝が訪れた事を鳥の囀りが示していた。
雲間から、虹色の光。
水の幕と光が織り成す、美しい絹が靡いているような光景。

「今、担架をお持ちします。暫しの御辛抱を」

彼が後方の兵に声を掛けると、四人ほどの兵が、その場を後にする。ざわざわと囁いている野次馬達。何を囁きあっているのかは分からない。
三成は一つ溜息をついた

「暫し私も休む。此度は、あの愚兄のせいで骨が折れた」

誰にも聴こえない独白のように呟くと、持っていた武器を手放した。
視野の端で、四人の兵士が木製の担架を携えてきた。


       
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