ある凶王の兄弟の話2

□笹の舟
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陽の光が雲間から差し込む巳の刻。
雨雲は空を競争するかのように流れ、形を変えながら空の果てへと消えてゆく。薄く水を被った瓦の下。朝露と雨に濡れた盆栽や草花がキラキラと光を乱反射して、眩しく煌めいていた。

床から目を覚ました正澄は、吉継が武田と協議している間、すっかり鈍った身体の調整や鍛錬に向かった。
3日間も眠りこけていたのだ。普段扱っていた刀すら重く感じる。毎日のように握っていたものが、たった3日の空白を開けるだけでここまで億劫な重さに感じるのかと、感嘆を隠せなかった。刀を重く感じるのは、単なる筋力の低下だけが原因ではないのかもしれない。武田で振る舞われる料理は肉ばかりになった。病み上がりの内臓には負担だが、早く回復させるには食事が一番とは幸村の言葉だ。にしても、胃もたれするほどの量を用意する必要はないと思うが。
ぽっかりと風穴が空いた胸の内に刀を重くさせる答えがあるのだろうが、今は答えを探す気分になれない。
どちらにせよ、大戦を目前に控えた己には力が必要だ。
大戦を終わらせるために刀を握る。
先日まで自分を取り巻いていた様々な思議が忽然と消えた今、ハッキリとした目的は、ただそれだけなのだから。
それに今は、己の理解者がいる。
些末に投げ打っていた事が、ここまで心強く自分を支えてくれるとは夢にも思わなかった。

正澄は家臣に教えられた道を辿る。聞いた話によると、向かっている先は鍛錬場というより広い縁側らしい。縁にそぐわず木まで数本聳え、逞しい自然の生命力により鑑賞としての機能が薄れた場所だという。
何故そんな所を紹介されたかまでは分からない。武田には大きく設けた道場の一つや二つはあると踏んでいたのに。拍子抜けというか、意外と言うか、
角を曲がろうとした時、死角から大きな轟音が響き抜けた。
大地と空気を揺らす。何か大きなものが、衝撃によって砕かれたような音。
向かっている先から聞こえたのであろう轟音に思わず瞠目する。
一瞬は敵襲を疑ったが、違うように思えた。敵襲ならこんな音はしない。何かが起きる音より人の叫びが先に聞こえる筈だからだ。
躊躇いつつも足を運び、角を曲がった先にある広い縁の中に、その答はあった。

「ま、またやってしまった…!」

そこには二槍を振り切った姿勢で顔面を蒼白とさせた幸村がいた。
彼の眼前には木材と、腸を抉られたように佇む家屋が今にも倒れそうな不安定な主柱を頼りに立っている。
案の定、沈黙が吹き抜けた後に家屋はバキバキと音を立て、砂埃の中に消えた。
縁の近くで佐助が頭を掻き毟っている。

「んもぉぉおお大将!頼むからこれ以上武田城を荒らさないでよ!一体俺様が何回日曜大工みたいな仕事したと思ってんの!?忍の顔が丸潰れじゃないの!何!?もしかして俺様に転身して欲しいの!?」

「わ、態とではないのだ!ただ手が滑って…」

「手が滑って納屋を破壊なんて猿でもしないよ!本当、頼むよ大将…先日大将が壊した武田道場の修繕も終わってねぇってのに…」

「むっ!あれなら俺も助太刀したではないか」

「木材切り取って運ぶだけで道場一つ直ったら世話無いの!」

惚けた表情でこちらを見詰める正澄に気付き、二人の視線が正澄に向けられる。
正澄は一礼する。二人の視線が向けられた正澄は、初めて沈黙に気不味さを感じた。

「出直しましょうか」

「良い、いつもの事だ」

即答にも似た幸村の一言に対し、佐助が幸村の頭部を軽く殴り付けた。忍の方は力強く殴ったようだが、幸村は極度の石頭のようで、痛がる様子さえ微塵も見せない。
滑稽な芝居を見ている気分だ。

「貴殿も鍛錬に赴いたのか。その節、身体は大事ないのか?」

「はい。傷の方は殆ど癒えました。幾日も暇(いとま)を空けてしまったので、鈍った身体を動かしておこうかと」

「左様か。是非とも我が武田道場に御招きしたき気分だが、生憎道場は壊れていて使えぬ状態にある故」

「えぇ、そうでしょうね…」

どことなく視線を佐助に向ける幸村だが、佐助が深い溜息を落としながら遠くを見ている。

そんな二人の様子に呆れ半分、正澄は砂利の敷き詰められた縁に足を踏み込む。砂利の層が薄く、一歩踏み締めればすぐに硬い地面が顔を覗かせた。言われた通り、鑑賞として楽しむには少々無骨な場所だった。
幸村の奥に三成の姿が見えた。大木を眼前に精神統一をしている。あの主従の小競り合いを耳にしておきながら、よく集中できるものだ。
いや、聴いていないのかもしれない。集中は、外からのあらゆる喧騒を遮断する。

正澄は刀をゆっくりと抜刀した。耳に張り付いた木と金属が擦れる音。三成のように両手で柄を握り、刀を構え、大きく息を吐き出す。眼を閉じて精神統一。
眼を閉じると、普段気に掛けないような微細な音までよく耳に届く。風の騒めき、木の葉が舞い落ちる空気の揺らぎ、どこか遠くで鹿が地を蹴る振動、その先に聞こえる遠い耳鳴り。そして己の闇と向き合える境地。
邪念が消えた所で眼を開け、刀を振るう。風を斬る音が幾重にも重なる。
眼に飛び込んでくる枯葉を切り裂く。足元には両断された木葉が散った。集中力は申し分ない。ただ、刀が重くて仕方がない。腕が痺れそうになる。
刀の重さを自覚した瞬間に気が散った。一旦収刀して呼吸を整え直す。
こんなにも早く集中が途切れたのは初めてではないのか。

「貴殿…名を伺っても?」

横隣から声を掛けてきたのは幸村だ。
正澄はちらりと彼を見据える。そういえば、まだ名を伝えていなかった。
前日に一度聞かれた事は覚えている。私はその時、何を気にかけていたのだろう。記憶はあるのに、その時に感じていたものが思い出せない。

「石田正澄と申します」

「正澄殿。貴殿は手練れとお見受けする。何故かような猛者にして天下に名を馳せぬ。貴殿のような者と戦を待ち望んでいる武士(もののふ)が、日ノ本には溢れておるというのに」

幸村の凛とした瞳がこちらを見据えている。目の前を冷静に観察するような瞳の奥に獅子の勇猛な魂を宿している。後ろめたさとは無縁の眼をしていた。
三成と同じ眼をしている。と思った。
今だけを見ている瞳。
『目の前』だけを見ている瞳。

彼は正澄の様子や得物の扱い方を見ただけで、正澄が手練れだと見抜いたようだ。
突っ走る事が取り柄の虎だと思っていたのだか、見当違いらしい。佇まいや振舞いだけで猛者かどうかを判断出来るまでに至るには、相当な場数が必要となる。
正澄は暫く幸村の眼を見詰めていたが、やがてこう切り出した。

「仮に私が名を馳せようと、私は天下人になれない。貴方達が目指しているものは、私には見えていない」

あまりに拍子抜けた返事に、幸村は言葉を失った。
その刹那、三成が木を見据えていた方向から風を斬る雑音がした。眼を向けたと同時に、大木が細切れになって崩れ落ちる。正澄の眼にも止まらない居合術だ。
木が土煙を上げながら、高さを失くして地面に転がった時、ふいに佐助がパン、と手を叩いた。

「折角だし、石田の旦那。…と、石田は二人いるんだよな。正澄さんの方。大将と手合わせしてみたら?」

佐助の妙案に、その場の者の視線が集まった。

「単純に素振りしてるより、そっちの方が効率良いんじゃない?」

佐助の言葉に対し、幸村も無邪気な子供のように大きく頷いた。

「成程。丁度良い。俺も貴殿と槍を交えてみたいと思っていた所だ」

意気揚々と槍を翻す幸村。木を一本圧し折っただけあって、その気迫は前にしているだけで十分と感じ取れる。

「若虎と手合わせ願えるのは、我が身に余る光栄です」

正澄が少し口角を持ち上げた時だった。

「待て」

不意に三成が言葉を挟んだ。


       
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