ある凶王の兄弟の話2

□難き痛み
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三方ヶ原から大阪まで、飛脚は三日で辿り着く。
対してこちらは関ヶ原だ。三方ヶ原以上の距離ではない。馬の脚を使えば一日あれば十分だろう。ただ、休息を取らなければの話だが。
水も食糧も持たないこの状態で、馬の脚は持つのだろうか。
いくら天君とはいえ、決して限度が無いわけではないというのに。

獣道を抜け、川を飛び越え、野を渡り、山野を駆けた。
人通りのある道は結果として遠回りとなる。東の喧騒に向けてただ真っ直ぐに走った。途絶えた道も御構いなしに。焼け焦げた寒村も御構いなしに。ただ真っ直ぐに。
天君は少しも速度を落とさずに走る。流石はあの太閤と軍師が見込んだ馬だ。疾駆と持久力にかけては随一を誇っている。重い甲冑を纏っていようと、そして甲冑を着た人を背に乗せていようと、何の問題なく走る、駆ける

ただ、

「…ぅう、」

問題があるのは乗り手の方だ。
馬が踏蹄で地面を蹴る度に、右脇腹の傷が抉られているような痛みに襲われる。
脇腹を縛った布からは血が滲み、剰え血が滴っている。だが傷を庇うことは出来ない。両手に手綱と軍旗を持っているからだ。
構わずに天君を走らせ続けた。自分の事は良い。痛みの最中、頭の中にあるのは敵軍の目を引く事一点のみだった。
決して大阪城には行かせない。
我が恩師の墓を荒らさせはしない。
三成が、帰る場所を…――

日が沈み始める。尚も駆ける速度を落とさない。
天君の息遣いが少々乱れようとも止まらない。立ち止まらない。立ち止まれない。一度脚を止めてしまえば二度と進むことができなくなる。天君とはそのような『暴馬』なのだ。
心の中で謝罪をしながら手綱を強く握った。
足場の悪い道は必然と速度も落ちよう。四つ脚で歩けばそれが多少なりとも休憩の代わりになるはずだ。
滝の側を通れば多少なりとも深呼吸するだけで喉を潤せる筈だ。
休みは最小限にとどめる。何せ急を要している。状況は想定より遥かに悪い。正澄自身が見積もっていた移動時間は小早川の謀反を想定していないのだ。

兵士は言っていた
これは玉砕も同義なのだと。
死にに向かうも同義なのだと。
あぁ、確かにその通りだ。漠然とした確信ではあるが、もう二度と私が大阪城に戻る事はない。
城を枕に死ぬ事はない。城に仕えた者としての名誉を捨てたのは自分自身だ。
私はこの二十数年間、その殆どを大阪城の中で過ごした。
時に海や山を越えて戦に赴く事はあれど、あの城だけが私の安寧だった。

だが、
あぁ、残念な事に
もう私に残された選択肢は何処とも知れぬ大地で死ぬだけだ。
脇腹の傷を抉りながら死に場所を探している。客観的に見ればそんな風にも思える。
滑稽。だが、それでいて結構。
元より美しい散り際など望んでいない。生涯に仕えると願った2人は呆気なく人の手に掛けられた。
今の世は彼らの威光も威厳も、そして顔すら忘れて進んでいる。余りにも無常、余りにも残酷だ。
そんな当然の事を深く哀しみ、また当然だと肯定する自分すらも哀しむ。こんな救えぬ『からす』には犬死こそお似合いだ。

またこんなことを考えている。弟の怒りを買う事だろう。死ぬ事ばかり考えていると死が寄ってくる、と。
分かっている。十分に分かっている。自分の身体だ。その終焉くらいーーーー。

再び日が昇る頃には咳に血が混じるようになった。傷付いた身体が水を求めているが、馬を降りる暇すら惜しいし、元より水や食料など持っていない。

暁が近づいた頃から濃霧が辺りを覆いつくしている。足元が白んだ深く長い獣道を過ぎ、道が開けていく。木々を超え、岩肌が地面を覆い始める。硬い地面の感触が天君を通じて分かる。随分と遠くまで来た。
所々に唐草が生えた広い地面。所々ゴツゴツと顔を出す腰掛けに丁度良さそうな大きさの岩。
深い霧のせいで遠くまでは見渡せないが、これまでに自分が見て来たものとは随分と景観が異なる。地面が傾斜を帯びている所からすると、ここは山岳地帯の付近のようだ。高度もあるようで、空気が薄く感じる。だとすればこれは濃霧ではなく、『雲の中』なのかもしれない。

正澄は道がひらけたことを見計らい、手綱を引いて天君を歩かせながらキョロキョロと辺りを見渡した。
自分の第六感が人の気配を感じている。だが周囲に人の影はない所が、白んでいて何も見えない。太陽は雲隠れしていて辺りが薄暗い上に濃霧で索敵は不可能。最悪の視界環境だ。
だが空の雲は異常に早い速度で流れている。どうしたものかと一考している間に雲は晴れ、周囲は一気に朝日の眩しさに包まれた。
山岳は気候変動が激しい場所だ。雨が降ったと思えば、次の瞬間には晴れている。

と、
晴れた視界の先。
傾斜を帯びた地面の合間から陣傘が見えた。
それも一つや二つではない。二百、三百、五百−−…いや、もっといる。それ以上だ。幸いにもその集団とはかなりの距離がある。傾斜の緩い凹凸一つ分といった所だ。
正澄は馬の足を止めて息を殺し、軍勢の動きをよく観察した。
西に向かっている。先程正澄が辿ってきた道だ。足場は悪いが、最短で西へと赴ける道。

彼等の掲げている旗印が眼に入る。
円の中の違い鎌。間違いない。あれは小早川の旗印。
あれこそが大阪城へと向かう小早川の一軍。
確かに、あの人数を迎撃できる戦力は大阪城に残っていない。


正澄は手綱を握った手で天君の頭を撫でた。

「…天君。貴方が恐ろしいと感じるのならここで逃げても構わないのですよ」

天君はそれを分かってか分からずしてか、ブルブルと首を振った。
前片足で土を蹴り、大きく息を吐きだしている。
きっと天君も分かっているのだろう。あの軍に突撃し、正澄が何をしようとしているのかを。
良く分かっている。
乗り手の事を、乗り手以上に。
躊躇もなく、天君も覚悟は決めている。
真っ直ぐに敵兵を見つめている事が証拠とも取れよう。

「……」

手綱を握る手に力を込めた。
大きく息を吸い込み、吐き出す。波乱を巻き起こす前の心情にしては、酷く穏やかな気分だ。緊張も怒りも何もない。可笑しな程に

「…行きましょう」

手綱を緩く引いた。天君は一軍に向かってゆっくりと走り出す。
やがて徐々に駆ける速度が上がる。正澄は手綱を手放し、和鞍の隙間に差し込んだ刀を抜いた。
もう、走る暴馬に指示は必要ない。
刃は咎
鞘は贖い。
この刃に贖いなど存在しない。
我が贖いは、城の大地に打ち捨てた。


丹田から大量の闇を放出する。
制御も何もない黒き闇は正澄と天君を覆いつくし、瞬く間に周囲の空気を取り込んで増大した。
兵士一人一人の顔が目視で確認できる距離になった時には、天君は人が制する事など到底出来ない速度で走っていた。
こちらに気付いた瞬間、一気に恐怖を帯びる敵兵の顔。
存在を主張するかのような大量の闇を纏う白い馬、白い髪、白い刃、澄んだ琥珀色が煌々と輝く。
正澄は腰を浮かせ、軍旗を翻す。

相手は千の軍勢。
私はたった一騎。
正澄が感じているのは勝利の確信でもなく、犬死の敗北でもなく。

「き、奇襲!奇襲ーーーー!!!」

法螺貝が一斉に響き渡った。



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