ある凶王の兄弟の話2

□太平の勝敗
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耳を劈く法螺貝の音。人の声、陣笠の奥の怯えた表情が徐々に迫ってくる。
是非もない。唐突に現れたのは野伏りでも穢多の追剥でもどこかの伏兵でもない。一軍を相手取るような力を持つ婆娑羅者だ。それが人気のない山岳から、闇を纏って単騎で降りてきたのだ。驚かない方がおかしな話だ。それこそ化物が唐突に現れた事と大差無いのだから。


天君は真っ直ぐに人の隊列を蹴散らした。
幾人もの悲鳴がやまびこに反響し、人々は、まるで人形のように成す術なく吹き飛ばされてゆく。文字通りの阿鼻叫喚だ。
闘争心を剥き出しにして速度を緩める間もなく、人の列を裂くと同時に甲冑の飾角で闘牛のように人を突き上げ、或いは脚で蹴散らし、嵐のように高く嘶く。あんなにも遠く長い道程を走ってやって来て、尚も暴れる。
手綱の制御を失い、パニックになっている馬のような有様だ。しかし気が動転しているのではなく、動転しているように見せているということは、怯えた人を狙い、乗り手を気遣った賢しい暴れ方が証明していた。
小早川の兵士には反撃に武器を向ける暇さえ与えなかった。余りに遠くにいる兵士には正澄がどこで何をしているのか、状況の把握すら伝わっていない事だろう。

天君は明らかに空元気を使っている。長くを共にした正澄には伝わってくる。疲労が蓄積しているにも関わらず、乗り手の『意思』に従っているのだと
時に信頼とは残酷だ。こんなことを強要しているのも、強要を示唆していることに気づける自分自身も。
いや、だからこそ、たった独りでは到底届かないものにまで届いているのかもしれない。この状況が正にそれだと言えるだろう。

情けない声が耳元を何度も掠める。
正澄は的確に、冷静に相手の顔や所持しているものを観察しながら刀を振るった。
危うい均衡を保ち、歯を食いしばっていなければ舌を噛みそうな馬上で、冷静と平静を保ち続ける。
法螺貝を峰で弾いては天君に踏ませ、馬体に当たると予測した武器を弾き、相手の軍旗を一刀両断にした。
軍を動かすに必要なのは大勢を導く情報伝達手段。正澄はそれを重点的に狙った。
幾人も斬り捨てる暇も体力もない。そんな事をしていれば忽ち追い詰められるのはこちらの方だ。
必要最低限の事を必要最低限の労力で。必要以上の慧眼と冷静を以ってして。

「ま、待て!何が起こっている!?」

「助けてくれ!こっちに来る!」

「軍旗を折られた!畜生!こっちだ!こっちに来てくれ!!最前列はこっちだ!」

天君が前足を上げて高く嘶く。女の叫び声のような声だった。左手に掲げた軍旗が風を飲み込む。
ある兵士は震える手で正澄を指差し、こう言った。

「あの軍旗は石田だ!西軍の亡霊だ!やっぱ俺達には天罰が下ったんだ!」

混乱の渦中、人々の情報が撹乱し始める。こうなってしまえば指揮も統率も行き届かなくなる。そうだ。この混乱を狙っていた。
正澄は更に闇を放出した。彼を中心に波形が広がり、波は人々の体制を崩して薙ぎ倒してゆく。
内側から体力を削られる。息が上がる。だが、そこまでしてでも敵に居場所を知らせる必要がある。自分を誇示する必要がある。敵わない相手と錯覚させる必要がある。大軍にも引けを取らない者だと思わせる必要がある。
天君は二度(にたび)嘶く。嘶くというより、その声は悲鳴に近い。

「一旦引け!引けーー!」

「怯むな!かかれ!!彼奴はたった一騎だ!何を恐れる!」

耳に届く頭目の指示が分かれ始める。兵が分裂する。人々が分裂する。半分の人数はこの混乱に巻き込めただろうか。
尚も天君は四つ脚を酷使して暴れ続けている。
時間は残されていない。この撹乱が静まった矢先、自分には何が出来るか。
いっそ尾を巻いて逃げるか?否。それは選択肢に無い。逃避は恥だ。遥か昔から知っている。知っていて尚も逃げていたのだ。もう『目をそらす』のは十分だろう。
考えろ。考えろ。考えろ。現状をつと見つめ、何を為すべきかを考えろ。
何をすれば我が身を守れるのかではなく、西軍を守れるのかを。
ふと、そこで目を向けた先に何かが見えた。

「…あれは…」

正澄は天君の馬上である一点に注視する。
それは大きな樽を背負った兵士の一軍。
50人程だろうか。彼等とは7町程の距離がある。尚も樽を背負っていると気付けたのは優れた視力を持っているが故の賜物だ。
周囲を見渡しているだけで慌てふためいた様子はない。
あれは火薬を背負った兵士達だ。
慌てた様子がないのは、下手に動いて火を被らない為だろう。

たったそれだけを確認した時、白刃の槍が天君を一突きにした。

「っ!?」

幸いにも甲冑が天君を守ってくれていたらしい。だが妙な衝撃を感じた時、一瞬にして死を予感した。
正澄は目を細める。考えている暇などない。

「行け!」

鐙を蹴ると、天君は兵士を蹴散らして走り出した。手綱の指示がないというのに、正確に乗り手の意思を受け取る。
目指すは樽を背負った兵の隊列。天君は1つの弾丸のように真っ直ぐに走った。
敵兵は露骨とも取れる行動の変化にたじろぐ。

「不味い!奴は火薬を狙っている!」

「我等諸共ここを吹き飛ばすつもりか!?」

「そんなことを是が非でもさせるな!かかれ!奴を拘束しろ!」

やはりあれは火薬で間違いないのか。予想は確信に変わる。
声の大きな頭目が采配を振る。敵兵も必死だ。死を恐れる人の叫びが伝わってくる。宛ら彼等の目に、正澄は死を齎す化物とでも映っているのだろう。
目の端で百人が抜刀する。
目の端で百人が弓を引く。
目の端で百人が槍をこちらに向ける。
目の端で百人が火縄銃を構える。
騎馬兵が現れ、足軽は錆びた鎖を振り回す。

敵軍が確実に迎撃する姿勢へと変わっている。
布陣は些か雑に変わりはないが、奇襲を受けた最中にここまで迅速に対応出来るのは敵ながら天晴れだ。人海戦術に持ち込まれてしまえばこちらに勝機は無い。元より勝つつもりで挑んでいない。こうなってしまうことは頭の片隅で分かっていた。

正澄は嗤った。
誰かの模倣であるかのように嗤った。
実際に模倣なのだろう。
宛らその悪辣な笑みは、弱人を甚振る太閤のような

左右から人波が押し寄せる。
眼もくれずに正澄は火薬樽を背負った足軽の元へと駆けた。
雑兵など眼中にないとでも言わんばかりに。

「走りなさい。唯真っ直ぐに」

余所見も側見もいらない。どれだけの敵意が私達を貫こうと、貴方は前だけを見据えなさい。

樽を持った兵が山岳に向かって走り始める。明らかに向けられた殺意に対して逃げる為の行動だ。
腰を抜かして立ち上がれない者。それを起き上がらせようと腕を引く者。正澄の視野の中央で、彼に狙いを定められた兵士が恐怖に慄きながら逃げている。

そこまで確認した時、左右から雨のように大量の矢が飛来する。正澄はちらりと目視で確認すると、平静のまま大きく息を吸い込み、高密度の闇で馬体と全身を覆った。矢の雨は甲冑だけでその全てを防ぎきれない。
闇が鎧のように矢の雨を弾く。闇を通り抜けて自らに届く衝撃は石を投げ付けられた程度のものだ。幸いにも数多の衝撃に対して天君が怯むことはなかった。
だが左手に持っていた軍旗には大量の矢が刺さり、次の瞬間にはただのボロ布に成り果ててしまった。左手の得物に回すだけの余裕がなかった。丹田から一度に放出出来る闇には限度がある。
正澄は軍旗であった棒切れを捨てた。空いた手で差し込んでいた銃を引き抜く。
右方から迫り来る敵兵の影。矢の雨が止んだことを確認し、纏っていた高密度の闇を右手に集中させて刀を振るった。
刀身を離れた藤色の光が白兵を薙ぎ倒す。その斬撃に人を傷付けるだけの質量は込められていない。先程から過多な放出を続けているのだ。それこそこれまでに発揮した事がないような量を
扱ったことすらなかった量を、

天君に跨り、その疾駆に合わせて体幹を操作しているだけなのに全力疾走した後のような疲労と倦怠感が全身を覆っている。
汗が滲む。耐えろ、耐えろと自分に言い聞かせる。倦怠感が冷静を保とうとする脳裏を阻害する。焦りと早りが掠める。焦りはこの戦場において最も危険な感情だ。
左方からの白兵も同等に藤色の斬撃で薙ぎ倒す。右方で体制を立て直した足軽に再度同じものを見舞う。
何度斬撃を飛ばそうと数が減らない気がした。それもそうだ。正澄がやっているのは良くて足止め。
完全に数に翻弄されている。踊らされていると分かっていながら、走る天君の上で遠くにいる者に対応するには斬撃を飛ばして人々の足止めをする程度しか出来ない。

丹田の闇が底を尽き、一瞬意識を奪われそうになった。ぐらりとバランスを崩し、落馬してしまいそうになった所でどうにか理性を取り戻す。気絶しかけるまで丹田を酷使したのは初めてだ。途方もない疲労と脇腹の痛みがじわじわと冷静な頭を焼いているように思えた。

だが、この労力は決して徒労ではない。
天君は着実に爆弾兵との距離を詰めている。彼等は小早川軍の隊列を抜け、山岳に向かって逃走していた。
距離にして既に一町も離れていない。それだけの距離を詰める事ができた。兵の武器の射程からは抜けている。正澄は銃を構える。正確に馬の上から爆弾兵の樽を捕捉する。

思えば、注視する余りに周囲に目を向けていなかった。
意識が緩んでいた。全てが自分の思議通りなのだと。


不意に後方から破裂音が聞こえた。
発砲音だと気付いて振り返った瞬間、火縄銃の黒い弾が目の端に垣間見えた。琥珀色に黒い鉛がいくつも映る。
天君から妙な振動を感じた。けたたましい叫び声を上げ、天君は身をよじった。

「!?」

落馬するより前に天君が体制を崩し、正澄は諸共斜を帯びた地面を転がった。
視界が反転する。正澄は天君から投げ出され、大きな岩に叩き付けられた。

「かはっ…!」

肋骨が嫌な音を立てたのが感覚で分かる。
正澄は力なく地面に倒れ臥す。湿った土の匂い。冷たい地面が頬に触れる。三半規管がおかしい。伏しているのに目眩を感じる。肺が圧迫されて呼吸が出来ない。不幸中の幸いにも、皹は入ったかもしれないが骨は折れていない。浅い呼吸を繰り返し、言うことを聞かない腕を地面についてゆっくりと顔を上げた。相変わらず両手には武器を握ったままだった。何があろうと正澄は決して武器を手放さない。

「て、天…君」

天君は顔を上げた視界の先にいた。
黒い甲冑は泥を被っている。胴の甲冑の隙間から赤い血が見える。運悪く甲冑の継ぎ目に弾を貰ったのだろう。目を剥き、浅くて早い呼吸を繰り返している。
あの状態で再び走るのは到底無理だ。そう悟るなり正澄は俯いて目を閉じた。

よく走ってくれた。
よく足掻いてくれた。
十分だ。

岩を支えにしてゆっくりと立ち上がった正澄の左手に鎖鎌が巻き付いた。
そのまま鎖を引かれる。なんとか踏み止まって転倒は免れたものの、完全に銃を拘束されてしまった。
正澄は鎖を引いた兵士を睨み付ける。如何にも屈強そうな兵士だった。彼が正澄の殺意にたじろいだ所で、正澄の周囲に兵士が壁を作った。
槍や刀を向け、逃げ道を完全に断たれる。狡猾にも、槍の射程、刀の射程外の距離だ。

「動くな!石田の亡霊め!」

正澄はそう吠えた頭目に目を向けた。

「其方は何者だ。石田の旗を掲げた野武士か!答えよ!」

正澄は押し黙ったまま頭目を見つめている。

「じきに西軍は敗北する!無為に戦火を撒く愚行は死に能う。其方等の城は落ち、家康様と金吾様の時代が始まるのだ!名乗れ空者!其方の踠きは無為である!」

この頭目は正澄を『亡霊』だと言った。
既に石田軍を脳裏で『滅んだ』ものとしている。その言い草が気に食わない。
私の足掻きも、私の生き様も、私の決意も我武者羅に走った痛みも、意思も、
その全ても無駄だと一蹴された気がして頭に血が上った。
徐々に正澄の眉間に皺が寄る。
眉は吊り上がり、琥珀色は怒りに染まる。あまりの剣幕に兵士たちは半歩後退った。
彼の身体から尽きた筈の闇が煙のように立ち上り、彼の唇から熱い息が漏れる。

「憎き裏切者。貴方達に名乗る名などない。西軍は滅び、石田軍がじきに落ちることは分かっています。だからといって我が死を『無駄』と定する権利が、貴方達にあるのか」

「なれば如何とする。彼方者の其方に、今更何が出来よう」

癪に障る。不快極まりない。私はまだ生きている。三成はあの戦場にいる。石田軍も西軍も、まだ関ヶ原の大地で足掻いている。


「我が大義を、我が理想を過去と断ずるな!!」


正澄は歯を剥き出しにして吠えた。
余りの剣幕と、余りの威圧。闇が波形に広がり、先頭にいた兵士が腰を抜かす。
正澄はその隙を決して逃さなかった。
体に残った僅かな闇を刀に収束し、人々の隙間から刀身が黒く染まった刀を槍のように投擲した。
黒い刀が空を斬り、一直線に目掛けた先には
爆弾兵が背負った火薬樽があった。


刀が樽に突き刺さる。
次の瞬間、一帯が閃光と熱風、衝撃に包まれた。
正澄を囲む小早川兵に砕石が降りかかる。正澄が姿勢を屈め、右手で顔を庇ったのに対し、人々は身を縮めて衝撃をやり過ごそうとしていた。

衝撃に巻き込まれた火薬樽が次々と誘爆を起こす。山が弾けている。
一体が震えるような爆風と地響き。それだけではなかった。
爆発で山肌が捲れ、嵩と勢いを増して土砂が滑り落ちてくる。
小早川の兵士があっけに取られている間に、千人はゆうに飲み込めるような量の土砂がなだれ込んでくる。木々さえも土砂に混じっていた。
正澄が引き起こしたのは、『地滑り』

彼はこの地滑りから逃れようも、左手を拘束されている。
諦めている訳ではないが、最初から逃げるつもりもない。大きな天災を前にすれば、一人も百人も、千人も同じだ。
感じていたのは勝利の確信でも、犬死の敗北でもない。
確かにこれでは、勝利とも敗北とも言えなかろう。


最後に聞いたのは幾人もの悲鳴、叫び声。そして轟音と地鳴り。鼻を掠めたのは火薬の匂い。目の前が土色に染まった瞬間、真っ暗になる。

逃げる間も無く、土砂は正澄諸共その場にいる全てを飲み込んだ。




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