ある凶王の兄弟の話2

□其は最果て
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「…う、」

力の入らない右手で砂を握った。
全身が鈍い痛みに覆われている。割れるように頭が痛い。何故か私は生きている。
どれ程の間意識を失っていたのだろうか。どれ程の距離を流されたのだろうか。覚醒したばかりの霞みがかった意識の中でぼんやりと考えた。
何も浮かんでこない。自分の身に何が起こったのか。それすらも分からない。

右手を支えに、ゆっくりと体制を持ち上げる。背や頭に乗っていた砂がサラサラと一縷な音を立てて落ちた。衣服の中に砂利が入って気持ち悪い。
重さで分かる。左手に携えた銃にはまだ鎖が巻き付いている。身体が鉛のように重い。視界が暗くぼやけている。目に砂でも入ってしまったのだろうか?違う、瞼を開けていないだけだ。
重い瞼を開けた。まず視野に入ったのは曇った空に一面の更地だった。
幹まで土に浸かった木々。折れた槍、違い鎌の軍旗、砂をかぶった陣笠と刀。
人の姿はなかった。
天君の姿もなかった。
砂が流れる音もない、鳥の囀りもない。
不自然な程に静かで、殺風景な空間が一帯を支配していた。
彼等はこの土の下にいるのだろうか。それとも遠くへ流されてしまったのだろうか。
何故私が…
私だけが生きているのだ

そこでようやっと分かった。
正澄は地滑りが起こる直前まで敵兵に囲まれていた。幾重もの人の列に道を阻まれた、四面楚歌とも取れるような状態だった。
皮肉にも彼等が正澄を地滑りの衝撃から守ったのだろう。
奇跡的にも土砂の上を流され、どこかで気を失ってここに至る、と。
幾重もの奇跡が重なって意識を取り戻したのだ。
ただ、この偶然に浸ってばかりもいられない。

「…行かなくて、は」

歩かなくては。
呆然と立ち竦してばかりはいられない。自体を前に唖然としてばかりもいられない。
進まなければならない。死者や生者の埋まった地面の上でも、同士が蒸発した荒野の上でも。
釈然と歩を進めなければならない。
今更何を躊躇う。自分は今までもそうしてきた。
鬱陶しく左手に絡まる鎖を解き、状態を起こそうとする。
立ち上がる足に力が入らない。
動くことを拒む四肢に命令し続けた。
立て。立って歩け。まだ本懐は成し遂げられていない。右足はついてる。左足もついてる。おまけに両腕もついてる。五体満足ではないか。これ以上に何を望む。何故言うことを聞かない。
私は約束を守る為に関ヶ原へ向かわねばならないのだ。
五体を縛り付ける、のし掛かるような倦怠感、錘石を括り付けられて大海の底に沈むような虚無感。例えようのない無力感。
それらを振り払う為に弱く集中させようとした闇が霧散してゆく。
…あぁ、成程

自分の事だ。この違和感の正体が分かる。
丹田が壊れている。
最早今の正澄には、以前のように闇を操ることは出来ない。
酷使した手前、身体の中で焼き切れてしまったのだろう。
名を失っただけでなく、婆娑羅者ですらなくなってしまった。

こんな身体で血で血を洗う戦場に行き、何を成そうとしているのか
自分の事なのに全くわからない。
丹田の機能を失おうと、向かわねばならないという使命感だけは胸の内で燃えていた。
ようやっと二本の足で立ち、進めた歩みはおぼつかないものだった。だが確実に、前へ前へと歩く。

「……」

なのに。
心の中が唐突に虚しくなる。
不意についた嘆息が空気に溶けて消えていく。
失ったものではない。私には何が残っているのかを考えるべきだ。
分かっているのに、
頭では理解しているのに…
何かを失った喪失感ではない。絶望ではない。千人と相打ち、生き延びた喜びもない。
殺風景な道を進むたびに、どんどん虚しさがこみ上げてくるのだ。

分かる。この空虚の正体が。
度々心を蝕んでいた虚構の正体が。
大義を背負う在り方は、人としての在り方を殺すのだ。
私は三成よりも『人』であった。
『人』でありたいと心の何処かで願っていた。
同士を失えば涙を流し、同士と共に笑い合い、彼等と共に戦場を駆け、怒りや苦しみを共有したかった。
なのに私が選んだものは、たった一人。
たった独り。
大義に忠を尽くし、西軍の為に独りで死ぬ事。

半兵衛様の言葉の真意を今になって痛感する。
『独りとは、実に虚しい』
あの日、あの軍師は病に侵された身体を引き摺り、一人で危機を察知し、一人で果てようとしていた。
豊臣の矜持という、大義の為に。

「……」

半兵衛様の命を救うことは出来なかったが、半兵衛様の『心』を救うことはできただろうか。
今となって知る術はない。何せ自分は、その最期すら顔を見ることは叶わなかったのだから。


千人を手取り、災害を利用して彼等の足を完全に狂わせる。簡単には成し得ない文字通り一騎当千。
武者であれば冥利につきるだろう。
ただ、名声など今の正澄にとってどうでもよかった。
何せ勝利の余韻もない。勝ったという確信もなければ感動もない。
根本的に喜ぶことが間違っている。これは勝利したのではない。奇跡に生かされただけなのだ。
打ち所が悪ければ死んでいた。
落石に押しつぶされていれば死んでいた。
砂に飲まれれば窒息していた。
仮定を上げれば限(き)りなしの、自然の気紛れに生かされた。ただそれだけの瑣末な命。

「…」

空の曇天は益々深くなる。垂れ込めた空から時折鋭い光が覗き、腹の底に響くような低い轟音が鳴る。
僅かな煙の匂い、火薬の匂い、空の雲と一体化するように立ち上っている煙、人々の喧騒、叫び声。
それらが歩く度、鮮明に五感を刺激するようになる。

近い。
戦場はすぐそこにある。
均れた景観の先に私が目指していた場所がある。一歩を踏み出し、また一歩を踏み出す。
歩く先で滑り落ちた土砂の量が徐々に薄れ、黒々とした岩の道が露わになる。

「…ここが…」

狂乱と闘争の舞台、関ヶ原。
垂れ込めた空が地上の岩肌と溶け込み、空と地の境界が曖昧になっている。
あの先で西軍の要が、東軍の要と戦っているのだろう。
そう考える度に、倦怠に緩んだ頬に力が入った。
周囲で轟く喧騒に耳も傾けず、正澄は身に鞭打って駆け出した。

  
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