ある凶王の兄弟の話2

□ある凶王の兄弟の話
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叫ばずにはいられない。
嘆かずにはいられない。
その感情の全てを押し止め、正澄は戦野を走る。

疾駆による呼吸と、だらしのない言葉にもならない声が入り混じる。
私は今『敗北する』為に走っている。
もう戦況を立て直すことは出来ない。それだけの余力も統率も兵力も頭数も私達には無い。
私達はもう『滅ぼされるだけの存在』だ。
大きな戦力に、虱を潰すように蹂躙される側なのだ。豊臣の野望も石田の羨望も、全てが清算されていく。このまま無為な抵抗を続ければいずれ跡形もなく殲滅されてしまう。
だから、せめて『無かったもの』とされてしまわぬように、
せめて彼等に『敗北する』為に走る。
これが『敗走』という感情。
なんて屈辱的で、なんと惨め。

遠くで駆動音が反響する度に胸が締め付けられる。振り返ってはならない。振り向いてはならないのだ。
託された道を振り返るのは、吉継に対する侮辱だ。
山麓に向かうにつれて石田の兵士の数が激減する。その姿さえ見えない。あるものは山吹の紋。それに傘を同じくする軍の紋。
恐らく、敵も消えた陣を守護している連中だ。
今更敵陣に用はない。奪おうとも思わない。一直線にそれらを横切り、双方の大将が戦う山麓に向かう影を、彼等が見逃すはずもなかった。

「あれは石田だ!石田の人間だ!」

「決して家康様の元には行かせるな!!弓兵!構えよ!!あの悪を生かして返すな!」

一人が声をあげれば、それまで陣を守護していた兵士が一斉にこちらを向き、刀を振り上げて襲い掛かってくる。
彼等を迎撃する事は叶わない。人の波を尻目に走り続けた。速度を緩めれば射手の射程だ。再び血が喉元を登って来ようと立ち止まる事は許されない。
彼等に対しての怒りはなかった。
恐怖もなかった。何せ、私を殺すのが彼等の『最善』なのだから。
このような身体とはいえ、私の地位は一人の武将。首は終戦を告げる鐘にもなろう。
それに彼等から見れば、私は『諸悪の根源』だ。
日ノ本の安寧を乱す要、蹂躙を厭わない殺戮者、希望に牙を剥く絶望、日没を目論む復讐者。
そしてこの先の日ノ本に、必要ない者
全てのベクトルが私に向いている。行き場のない農上がりの兵士の怒り、友を石田に殺された兵士の悲しみ。
応えてはならない。耳を傾けてはならない。刑部の願いを無駄にするつもりか
想いを無碍にするつもりか
我が友の願いを、行き場の無い怒りと敵の手柄の為に犠牲にするつもりか

「騎馬だ!騎馬を以って回り込め!」

「行かせるな!生かせるな!首を掻き斬れ!家康公の褒美が弾むぞ!」

「銃を構えよ!工作兵は柵を作って逃げ道を塞げ!」

流石に人の身で馬の脚には敵わない。背後から蹄の音が刻々と迫って来る。布がはためく音、甲冑が擦れる音。正澄には『ない』筈の、それでいて必ず何処かにある奥底に秘めた恐怖を煽る。

竦むな、それでも走れ、耳を塞ぎ、人を振り払い、人を蹴倒し、薙ぎ倒し、刮目しろ。何を踏み躙ってでも真っ直ぐに走れ。
右脇腹を撃ち抜かれていようと、
擦れ傷を抉ろうと、
幾度身体を打ち付けようと、
人の身であろうと、
凡人であろうと、
弱卒であろうと、
我が友の覚悟を無駄にしない為に、
我が兄弟の為に、

『魂』を削ってでも、

眼を見開いた。その先には空を舞う一羽の鴉が見えた。
こちらを見ている。まるでこちらを哀れむように、憐れむように、憫むように、
色彩を失う視界、視野の端が黒ずむ。今まで内側から、外側から私を責め立て続けていた痛覚が消え、嫌に研ぎ澄まされた五感が迫ってくる。鬱陶しい思議は消え去り、四肢から人を蝕む瘴気を立ち昇らせ、人の身体を解脱し、境界へと近付く度に身を屈める。
是に於(おい)て誰(たれ)か恐慌し、
私は--------


「■■■■■■■■■■!!!!!」

正澄は空に向かって獣のように吠えた。同時に身体の内側に蟠っていた瘴気が解放され、黒い帯が水に黒い炭を落とすように広がった。
左手に持った銃を咥え、三千世界を駆ける魑魅となる。
瘴気は足元の唐草を黒く変色させ、掠めるだけで岩肌を削り取る。その中心にいる正澄は眼を真っ赤に滾らせ、物の怪と相違ない容姿で前方に迫る人々を睨み付ける。
怯えきった人の顔がいくつも飛び込んで来る。人海戦術により、自分が正澄より『大きい』と思い込んでいた兵の一人一人の顔が酷く萎縮している。
正澄はそんな彼等に対して爪を突き立てず、遠くから飛んで来る弓矢と前後左右から迫る人の波を掻い潜る為に動いた。
頭では何も考えていなかった。飛来する矢の軌道も、人の動作も、殺意の方向も、全ては勘による先読み。
幾百もの戦場を潜り抜けた身体の記憶に任せた動き。

「に、逃げたぞ!追え!そっちだ!」

「来るな!来るな!化物!助けてくれ!」

「死を呼ぶ霧だ!触れると死に罹るぞ!」

身体が別人のものであるかのように動く。
人の命を奪わない為に、人の合間を縫うように、風が吹き抜けるように
あぁ、この感覚は
戦場にいながら不殺を然とするこの戦い方は
何も覚えていないのに、どこか懐かしい。

正澄は大きく跳躍する。十にも連なる隊列を跳躍のみで抜け、着地先に控えていた槍兵の武器を一凪でへし折った。
武器を失った兵士を追撃するでもなく、正澄は山麓に向かって再び駆ける。
不思議なことに、殺戮衝動はなかった。あれ程の御し難い衝動を嘘のように感じない。

重なる怒号の中、敵軍に囲まれる黒い青年は、舞い踊るように戦場を駆ける。
白兵の武器を折り、
心の臓を一突きしようとする槍を避け、
空を飛び交う矢石を躱し
火縄銃の弾丸を捌く。
一斉により来る敵軍を斬らず、斬撃の合間を辿っては足場の悪い岩の上を進む。
大岩を飛び越える。その先にある切り立った道なき崖すら、重力を無視しているかのように軽快に登った。
下で叫び声が聞こえる。もはやそれすら頭で理解することはなかった。
崖を登り抜け、その先の傾斜に踏み入る。

鴉が飛んでいる。
まるで正澄を先導するように、低い場所を飛んでいる。

吉継が正澄に託したものは、大望でも大義でもない。彼の願いはもっと個人的なものだった。
もう石田に不幸の星を見て欲しくない。
そんな小さな願いが、吉継が最期に願ったことだった。
それは決して西軍の逆転を祈るものでも、太閤の意思を示すものでもない。
大義に比べれば余りに瑣末で陳腐な願いかもしれない。
だが、正澄はこれまでにない衝撃を受けていた。
『自分』に何かを願われたのは初めてだった。大将としてでもない、頭目としてでもない。立場や責任すら逸脱したもの。
三成の兄として、正澄という一人の人格として認められ、何かを願われたのは初めてだったのだ。
そんな小さな他人の願い1つで、正澄はこれまで制御の利かなかった『魂』の瘴気を制御出来ている。

本当におかしな話だ。
私が心から求めていたものは
こんなにも近くにあったのだ。

山麓に足を踏み入れる頃には、周囲に人影すらなかった。
左右を切り立った岩に塞がれた道を、大岩を砕いて塞ぐ。
一軍相手には足留めが精一杯かもしれない。だが時間を稼ぐには十分だ。
他人の足音すら鋭い耳殻に届かなくなる。
代わりに、徐々に近づいている音がある。
剣戟の音
違う、何かおかしい。
剣戟をしている音にしては、金属音が小さすぎる。
これはまるで…
『甲冑を刀で撫でている時のような、』

上を見据え、正澄は走った。
絶望を予見しながらも、走った。
その先に何が待ち受けていようとも、その覚悟は出来ている。


雨だ。
太閤が去ったあの時と同じように、また雨が降り始めた。

    
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