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下弦の月[5]


薄い闇。微かに確認できた景色に、どことなく違和感を覚える。
あれ、ぬいぐるみがない。
未だ本調子でない頭の端で思う。自分は何処か知らない場所で眠っていたらしい。

―そうだった。ここは、春歌の部屋。正確には渋谷友千香と七海春歌の共同部屋。

「…、…っ…」

襲ってきた筋肉痛で、起こそうとした身体の意思が奪われる。
代わりに寝返りを打った。
目の前には、同じ掛け布団の中にくるまっている、可愛い恋人の寝顔があった。
闇には決して似合わず、彼女のすべてが穏やかだった。

意識を潜らせる前は、とても辛くてのたうち回りそうで、それでいて、熱い夜だった気がする。
たぶん必死に、彼女を求めていた。助けてほしいと。
柔らかな呼吸の眠り姫が、こうして存在しているのなら、酷くはしてないはずだ。

―さっちゃん。

那月は自らの胸を押さえつける。
恨まれているかもしれない、と思ったことは何度もあるが、あんなはっきりとした拒絶は、初めてだった。

彼との距離感は大人になるにつれ、確かに目に見えて育っていた。
でも、仕方がないと開き直っていた。
自分の道を選んでいく、ということは、そういうことだと思っている。

臆病で人の言いなりだった自分が、やっと自分の意思で、自分の言葉で選べた道に夢中だった。
好きな女性ができて、一人の男として、しっかり立っていたくて、夢を誰にも渡したくなくて、
そのための犠牲なら多少は、なんて、考えるようになった。
結果的に、軽んじてしまうのは身近な存在。
それも、心のどこかで今も昔も、正直負担を感じていた存在で。

―負担?
それはちょっと違う気もする。失いたいわけじゃなかった。
この世で一人しかいない兄弟を、そんなふうに思うわけがないと、言い訳にも聞こえる、音のない文字を羅列する。
那月は苛まれるように重い息をつく。

「……ん…、………那月…くん……?」

春歌が目を覚ました。途中まで持ち上げられた瞼の奥は、那月を捉えていた。
那月の体温が僅かに離れたのを察知して、夢から慌てて戻ってきた。そんな表情をしていた。

「ごめん、起こしちゃったね…」
「ううん……あの、那月くん……大丈夫ですか?」

昨晩も、様子がおかしかったから、と付け足した。
砂月のアパートを後にして、寮に戻ってきた那月は、かき乱された内側を隠すほどの余裕がなかった。
春歌はもちろん、どうしたのかとその時も問うてきたが、那月はその口唇を強引に塞いだ。
言いたくない。言いたくないけど、どうにかしてくれ、と強めの愛撫で訴えた。

友達の顔も見たくないくらいで、渋谷友千香が偶然にも留守にしていたのをいい事に、春歌の部屋で、その身体の意志を奪った。
こんな抱き方をしてはいけないと頭では理解していても、止められなかった。

「…ごめんね」
「…気にしないでね…」
「…うん」

春歌を懐の深さを知っている。甘んじてしまう自分の弱さも。

「ねえ、ハルちゃん…」
「はい」
「我慢とか、妥協とか…もししていたら、今すぐやめてほしい」
「え?」

何を言い出すのかと、春歌は目を大きくする。

「僕は鈍いからたぶん、あなたが我慢していても気づかないかもしれない……」
「どうしたんですか、急に」
「あとで…もう遅くなってから気づくのだけは嫌なんです。失ってからじゃ…」

自分を突き飛ばした弟の、あの時の顔が、脳裏に焼きついて離れない。
もしかしたら、もう取り戻せないところまで来ているかもしれない。
今は、自分から全ての人間が逃げていく気がして、怖かった。

「我慢するのは、いけませんか?」
「え」

戸惑うと、春歌は身体を起こして、何も纏わない上半身を布団で隠す。
濃いめの青い背景だからか、春歌の肌は綺麗に映えていた。

「那月くんが、好きです。そのために我慢するのはダメですか?」

あまりに真っ直ぐな問いかけに、那月は返す言葉を見いだせなかった。


「無理です。わたし、那月くんが大好きなんだもん」


春歌の笑顔が景色いっぱいに広がった。
この上なく陽だまりである存在に、那月はかなわなかった。


「僕の負けです…」


春歌を腕の中に抱き寄せた。乳房の柔らかさを心臓で直接感じると、リズムが狂っていく。
日付は変わっているけど、世間一般の活動時間ではない。
春歌の吐息が聞こえると、鞘に収まったはずの欲望がすぐに開花してしまう。
若気の至り。

「では…僕も我慢しますね。あなたの身体をこれ以上、酷使したらいけませんから」
「那月くん…」
「だから、キスだけ…」

囁くように言って、ちゅっと弾くだけのキスをした。




「四ノ宮、ぼうっとするな」

バイト先の店長の軽い一喝に、砂月は悪夢の連鎖から解き放たれた。
那月を追い出した晩、明け方までうなされ続け、陽が高く昇ったこの時間帯ですら、砂月の脳内は夢を引きずっていた。
手作業には非常に不向きだ。

「…すんませんでした」

自分でも分かるほど、不機嫌混じりな低い謝罪をした。
店長は腹を立てるに決まっている。
元々砂月は嫌われている。
子供の頃から、他人には全く好かれない質だったから、今更その点に臆病にはならない。

「帰れ四ノ宮。そんなんで仕事されても邪魔だから」

鋭く吐き捨てられた。
同じアルバイトの連中は店長の険相に怯えた。

「わかったよ…」

舌打ちを付け加え、相手を挑発してから店の扉を力任せに開閉した。

ああ。どうにでもなれ。

誰も助けてくれないことなんて、生まれた時から知っていたはずなのに。
砂月は歩を早めて、気づけば息切れするほどに走っていた。
最近の夢の中の那月は、両親のように冷たい眼をして、自分を見下ろしている。
夢は現実ではない。ただの深層心理だと、知っている。

那月は本当は良い兄で、悪夢は自分の疑心暗鬼が生み出しているもので。
否、悪夢を見るのは、那月のせいで。
もうどちらが言い訳なのかわからない。

(死ぬのが最善策なのか)

本来、人間は自分の考え方がすべてだ。
世界にとっては邪魔なのに生きているとしたら、ただの我が儘なのだろう。

『なぜお前が死ぬ必要がある』

まただ。寝ても覚めても、この声がする。

『なぜ、お前が死ぬ?』
(俺は…必要とされてないんだよ。それなのにほんの少し、死ぬのが怖くて生きているだけだ)
『俺はお前がどうなのか、と聞いている』
(どういう意味だ)
『お前は生きたいんだろ?』

砂月は膝を折る。そこは自宅の床で、手をついた。

「死ぬのは…いやだ…」

ぽろっと、そんな言葉を落とした。

『なら生きりゃいい。お前の残りの命は、お前のためだけに使えばいい』
「したいことなんて…ない」
『嘘だな。お前本当は那月を消したいんじゃないのか?』

砂月ははっと顔をあげた。

「違う!」

それだけは、と砂月は涙を目尻に留めた。

『お前は昔から那月を妬んでいた。なぜなら、もし那月が生まれなければ、お前が可愛がられていたからだ』
「ちがう…」
『大人に嫌われる質は、お前のせいじゃない。那月という兄がいるせいで、そうならざるをえなかったんだ』
「ち…が……」
『はっきり声に出して言えよ。お前は――』

拳を地に叩きつけて砂月は叫んだ。

「だったら確かめてやろうじゃねえかっ。那月が白なのか黒なのか証明してやる。いいか、俺はお前に屈しねえぞ!」

那月にとって、自分がどんな存在なのか。
そうだ。抜き打ちで早乙女学園に行ってやる。
仲間に兄弟の存在を把握された時、那月がどんな顔をするのか。
あの女に再び接触した時、兄がどんな反応をするのか。

いつものように「さっちゃん」と笑顔で迎え入れてくれれば、全てが浄化されるだろう。
でももし、違ったら。

「その時は…俺は、那月を……」

誰にも聞こえない声で、残酷な末路を告げていた。


――

早乙女学園は自分の想像を遥かに超えていた。
まるで『城』だ。
門は豪邸に構えてそうな作りで、警備員が数人。
中は広い庭園。奥の方は森なのだろうか。
こんな華やかな場所で那月は暮らしているのか。自分は、あんな小汚いアパートなのに。

「ああ、君は確かAクラスの…」

上背が災いして、警備員に声をかけられた。

「はい。四ノ宮です」
「外出許可は?」
「忘れました…すいません」
「仕方ないな。顔見知りに免じてやろう」

あっさり中へ入れてもらえた。
砂月の存在はやはりここにもない。逆に言えば、何をしても『那月』で通すことができる。
私服でどこかに出かけた、眼鏡をかけていない四ノ宮那月。その程度の判別だろう。

「あ、四ノ宮さんよ」

授業の時間外なのか、庭園には数人の女子が屯していて、こちらにちらちらと視線をやりながらはしゃいでいる。

「眼鏡をかけてない四ノ宮さんなんて、あたし初めて見たっ」
「かっこいい…手振ったら振りかえしてくれるかな」
「大丈夫よ。あの人感じ良いって聞いてるもん」

本人たちは声を沈めて話しているつもりなのだろうが、内容が丸聞こえだった。
那月は、いつの間にか人気アイドルの地位を、この学園で確率していた。
女子が「ご機嫌よう、四ノ宮さん」と大きく手を振ってくる。

ぎこちなく、手を振ってやった。
女子が「キャー」と叫び、また仲間同士で凝り固まる。
複雑な気分だ。自分はあくまで『もう一人の』四ノ宮だ。


「那月いいいいいっ?!」


突拍子もない声に、鼓膜を貫かれた。
何事かと咄嗟に振り向くと、凄まじい勢いでこちらにダッシュしてくる小さな男を捉えた。

金髪に青い瞳の少年は、洒落た帽子をかぶっていた。
彼は砂月の数歩手前で立ち止まり、人差し指を突きつけてきた。

「お、お前、何でこんなところにいんだよっ」

目を点にさせながら、声を裏返らせた少年は、口をぱくぱくさせていた。

「さっきまで…七海とレコーディングルームにいたじゃねえかっ…いつのまに、着替えて…」

夢でも見ているかのような顔で、彼は砂月の姿を上から下まで見据えた。
七海、と聞いて、砂月は目の色を変えた。

「七海って、七海春歌…か?」

尋ねずにはいられなかった。帽子の彼は眉を寄せて、

「お前、何言ってんだ?頭…大丈夫、か?」

今度は心配そうに一気に距離を縮めてきて、砂月の額に手のひらをあてがった。
那月にタメ口の割には、ずいぶん年下に見える。
小さくて可愛い。不意に那月の言葉が過ぎって、ピンときた。
この少年の名前は、翔、ではないのか。

「那月、おーい那月っ」
「…那月、じゃない」

少年の問いかけに、砂月は無意識にそう答えた。
どいつもこいつも那月、那月。
俺は那月じゃない。俺は那月のおまけじゃない。

「俺は、砂月だ」
「へ?」

拍子抜けする帽子の少年。砂月は初めて、自分をはっきりと主張した。


「俺は四ノ宮砂月。那月の弟だ。兄に会いに来たんだ。案内してくれないか?」


――

少年の名前は睨んだ通りだった。
翔は砂月の身分証明を、最初こそ半身半疑で聞いていたものの、物分りは良いらしく、把握するとすぐに自分の名前を名乗った。

「やっぱりびっくりするよなあ。俺も初めてここに来た時は、この学園の広大さに驚かされたもんさ」

世話を焼くのが好きなのか、頼んでもいないのに、翔は簡単に敷地内を説明してくれた。
小生意気な印象も否めないが、時折優しい物腰になるこの翔は、嫌いじゃない。

「でもあいつに弟がいたなんて全然聞いてなかったぜ。アイツ、家族の話は結構するんだけどなあ…」
「そうなのか」

心を許してそうな翔にも、砂月の存在は明かしていないのか。
家族の話をしていたにも関わらず。

「俺の弟の話した時もさ。『そんな素敵な兄弟がいるなんて羨ましいなあ』なんて言ってたから、
てっきり一人っ子なんだと」
「羨ましい…?」

砂月の顔が強ばる。
砂月の足が止まったことに翔は気づき、「どうした」と声をかけた。

俺のような弟が、あいつにとっては汚点だったということか。

「あ、悪い。俺の受け止め方の誤りなんだ」
「いや、気にしてねえ」

よほど態度に出てしまったのだろうか。
暫く廊下を歩いていると、向こうから数人の男子生徒が近づいてきた。

「あれ、翔と那月じゃん!ていうか那月は七海と音録りじゃなかった?」

どうやら翔と那月の共通の友人らしい。
第一声は赤毛の活発そうな少年で、彼もまた砂月を知らなかった。

「音也、廊下で大声を出すのはやめなさい」
「ん?シノミーはついさっきまでレディと一緒にいただろう。何でこんなところに」
「確かに。四ノ宮はたった数分前までレコーディングルームにいたはずだ」

口々に、砂月を那月と違える言葉が浴びせられる。

「実はな。こいつ、那月の弟らしいんだ」

翔が割って入ると、全員が虚を突かれたのか、

「弟?!!!」

と声を揃えた。


――

レコーディングルームに案内された。
砂月は既に心穏やかではなかった。
扉を開けると、そこには確かに、那月と彼女、七海春歌がいた。
七海春歌がピアノを弾き、那月がそれに合わせて歌っているところだった。

何て伸びやかな歌い方をするんだろう。

「あ、翔くん、今…」
「悪い。那月に客が来てんだけど」

録音中だったらしく、七海春歌が少し困った顔をする。

「僕に、お客さん…ですか?」

誰だろう、と那月は首を傾げる。
翔は砂月の様子で、理由ありな兄弟であることを察したのか、歯切れ悪く告げた。


「お前の…弟だってさ」
「え?」


那月が言葉を切った。
沈黙による緊迫感を砂月は翔の後ろで感じ取る。一度、目を閉じた。
(那月)
どうか俺を嫌がらないで。


「…さっちゃん………?」


先に名前を呼んだのは那月のほうだった。
砂月は静かに息を吸い込んで、兄の前に自分の姿を晒した。


「那月……」


俺とお前の絆を、確かめに来たよ。
砂月は出来るだけ今繕えるだけの笑顔を繕った。

「四ノ宮、弟がいたとは初耳だぞっ」
「那月―!なんで教えてくれなかったのさー」

那月の友人たちの声が、背後から砂月の音声を遮った。
那月は、と言うと、すっかり困惑した眼差しをこちらに向けているだけだった。
仲間に返す言葉を散々迷った挙句、


「その、ごめん……」


都合が悪そうな物言いだった。
砂月の中で、脆くも必死に組み立てた積み木が崩れ落ちる。

「那…月……?」

もう一度だけ、兄の名前を呼んだ。そこで、那月の笑顔は一度も見られなかった。
兄は隣の七海春歌の手を握り、砂月に近づいてきた。

「ハルちゃん、ごめんね。ちょっとだけ待っててくれる?僕ね、この人とお話があるから」

砂月の瞳を吸い込むようにして捉えていた那月の目からは、温度を感じられない。
七海春歌は大人しく那月の言うとおりにして、レコーディングルームを後にする。
他の連中も那月の一変した様子に引き下がった。
二人きりになると、那月は扉を勢いよく閉めた。
その荒っぽさに、砂月は怒号を浴びせられた気分になる。


「さっちゃん、どうしたの急に…」


那月は口調こそ穏やかになったが、視線を寄越してくれなかった。

「迷惑だったか?」
「………」

那月はますます顔を伏せて口ごもる。砂月はとうとう冷静でいられなくなった。

「何でだまるんだよっ!」

思わず声が抗った。小さないくつもの風船が耐え兼ねて、割れていく。

「お前は俺の存在をずっと隠してたんだな、那月」
「そういうわけじゃ…」
「違うって言うのかよ。翔って奴が言ってたぜ。お前は自分に兄弟がいないかのように話してたって」
「そんなこと言ってないよっ」
「じゃあなんだ。翔が嘘つきだって言いてえんだな」
「さっちゃん!」

那月の声も響いた。もう後には戻れない気がした。

「言い訳なんか聞きたくねえ。お前にとっての俺の価値が、この学園に来て確かめられてよかったよ。
あいつらが証明してくれた。弟の存在がどれだけ、お前にとって邪魔で、恥で、面倒で、フンみてえなものだったかってさ。
そうだろ那月」

那月が顔をあげ、砂月に掴みかかった。

「僕はさっちゃんのこと、そんなふうに思ったことないよ!」

躊躇の文字が一瞬だけ感情に入り混じる。だが砂月は振り切り、那月を突き飛ばした。



「俺はお前が憎いんだよ!」



積もりに積もった感情が爆発した。
その瞬間、砂月の心は深い闇一色に埋め尽くされた。
さようなら。俺の優しい兄さん。さようなら。兄さんを愛した純粋な砂月。

砂月は砂月をこれまで苛めてきた仮面の男に、全てを委ねることにした。


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