萌えcanの
□その2
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そして約束の金曜日の朝。
ユフィは起き上がる直前に一言呟く。
「じゃ、手筈通りね」
布団の中でヴィンセントは頷くと、ユフィがカーテンを開けてから少し遅れてノロノロと起き上がった。
「起きて、アナタ。朝よ」
「・・・ああ」
「どうしたの?顔色が悪いわよ」
「気分が優れないんだ・・・」
「まぁ、風邪かしら?」
ユフィはベッドの縁に腰掛けると、自分の額とヴィンセントの額に手を当てた。
お互いに変わらない温度、平熱だが外から見ているかもしれない他人からしてみればそうとは思うまい。
笑いで歪みそうになる口元をなんとか心配する色に変えて芝居を続ける。
「ちょっと熱いわね。今日は大事を取って休んだ方がいいわ。会社には私が連絡しておくからアナタは今日はゆっくり休んで」
「ああ、すまない・・・」
努めて怠そうに答えるとヴィンセントは再び布団に潜った。
ユフィの方はベッドから立ち上がると、先程開けたカーテンを再び閉めて外からの目を断ち切る。
こうなればもうこちらのものだ。
カーテンを閉めたユフィは振り返ってヴィンセントと頷き合う。
まず最初に化粧台の引き出しからジュエルボックスを取り出し、ハートのワンポイントがマイクとなっているチョーカーを取り出す。
そしてそれを首に着けると、次にスピーカーを別の引き出しから取り出してヴィンセントに渡した。
スイッチを押してちゃんと動作するか小声で確認する。
「アタシの美声が聞こえる?」
「ああ、猫被りなお前の声がよく聞こえる」
「コノヤロー・・・」
ヴィンセントを睨んで見るが華麗にスルーされる。
それよりも、と目で促されてユフィは渋々しつつも念の為のお芝居を再開した。
「私、これからお掃除を終えたらルインさんの家に行くわね。
お粥作っておくからしんどいかもしれないけど、お昼はそれを温めて食べてね」
「ああ」
「じゃあ私、行くね」
そう言うとユフィは踵を返して寝室を出ようとした。
だが、手首を掴まれて引き寄せられ、よろめいてベッドに尻もちをついてしまう。
急に何事かと尋ねようとすると―――
「気をつけてな」
耳に直接、大好きな低音が吹き込まれた。
耳元で囁く時、小さな声で話す時は素の会話をする時だけ。
だから、これは素の会話で素のヴィンセントの言葉。
偽りの夫ではなく、素の、本当のヴィンセントとしての気遣いの言葉にユフィの胸は高鳴る。
煩く鳴る心臓の音が聞こえない事を祈りながらユフィもヴィンセントの耳元で囁く。
「ありがと。行ってくる」
立ち上がって二歩目を踏み出すまでヴィンセントの手がユフィの手首を離す事はなかった。
名残惜しく思ってくれているのだろうかと期待しつつ、寝室を後にする。
そして扉を閉めるのと同時に本当の自分にもドアを閉める。
ここからは偽りの妻の心。
ユフィは偽りの仮面を顔に貼り付けていつもの家事を始めた。
着替えてから朝食を済ませて食器を洗い、部屋に掃除機をかけて戸棚の中を確認する。
ヴィンセントは風邪という設定なので、買い置きしておいた雑炊で自分もヴィンセントも今日はこれで済まそう。
最後に軽く化粧をして家に鍵をかけて出ていく。
本当はヴィンセントの仮病作戦は前日に決行する予定だったのだが、別件の用事でどうしても出社せざるを得なくなったのだ。
そんな訳で急遽作った設定が、前日から体調が悪かったが無理して出社し、結果風邪を引いたというものになった。
若干苦しい設定かもしれないが仕方ない。
疑われない事を祈りながらユフィはルインの家のインターホンを鳴らした。
『はい』
「エレンです」
『はーい、今開けるわ』
受話器が切れる音がすると程無くしてルインは扉を開けてユフィを迎え入れた。
今日のルインは肩出しのニットワンピを着ていていつも通り色っぽい。
自分も今度ティファと一緒にニットワンピを買いに行こうとかと思いつつユフィは挨拶をした。
「おはようございます、ルインさん。今日は宜しくお願いします」
「こちらこそよろしくね、エレンさん。さぁ、入って」
ルインに導かれてユフィはルイン邸へと足を踏み入れた。
中に入ってみるが、意外にも『他人の家』の香りしかしなかった。
てっきり鼻につくほどの甘い香りや色っぽい(?)香りがするものだと思っていたがそんな事はなく、肩透かしを食らった。
玄関もコスタの海が描かれた絵画が飾られてるだけでゴージャスとは反対の質素であっさりとした様子だった。
「こちらへどうぞ」
スリッパを薦められて履き、リビングへと連れて行かれる。
リビングの中は柔らかそうなソファーとクリーム色のカーペット、大きな液晶テレビと普通のテーブルがあるだけで、ユフィが想像していたようなゴージャスな飾り付けや綺羅びやかな花瓶に活けられた真っ赤なバラなんかはなかった。
とにかく質素である。
そして必要最低限の物しかなく、無駄がない。
ユフィはただただ驚くばかりであった。
「エレンさん?」
ボーッとしているユフィを不思議に思ってルインが顔を覗き込んでくる。
「あっ、いえ、すいません!何ていうか、ルインさんってあんまり物置かないんですね」
つい本音が口に出てしまったが、出ても困るようなものでもないので訂正したりしない。
ユフィの言葉を受けてルインは小さく微笑む。
「フフ、意外でしょう?こんな大きな家に住んでいながら必要最低限の物しか置いてなくて。
私、あまり物をごちゃごちゃと置きたくないのよ。置くにしても本当に気に入った物だけ。
だから掃除も手軽に済ませられるし、尚更お手伝いさんとかいらないのよ」
「まぁ、そういう事だったんですか」
しかしユフィにとっては半信半疑だった。
もしもルインがルファンだったら盗品を隠す為のカモフラージュかもしれないし、ここが数多く存在する隠れ家の一つかもしれないからだ。
しかしカモフラージュをするにしても『木を隠すなら森に』の原理で、あえて高価な物をずらずらと置いてそこに盗品も置くというスタイルにするものだが、果たして。
ユフィは何気なく部屋のあちこちに視線を送らせるが、隠し扉やそれっぽいような物は見当たらない。
カーペットの上を何気なく歩くフリをして踏んでみるも、隠し床がある気配はしなかった。
極めつけに長年培ってきた宝を嗅ぎつける己の鼻に頼ってみるがそんなニオイもしない。
(ルインはルファンじゃない、感じ、か?)
結論付けるにはもっと材料が欲しかった。
そんな事を考えている間にルインが部屋中のカーテンを閉めて電気を点けた。
「それじゃあエレンさん、早速この下着に着替えて。今着てる服や下着はこっちの袋に入れておくといいわ」
そう言われてルインに黒の布袋と試作品と思われる下着を渡された。
「ご丁寧にありがとうございます。あの、洗面所はどこですか?」
「そこのドアを出た正面よ。なんだったら目の前で着替えてくれてもいいけど」
「ええっ!?」
つい素の反応をしてしまったが、これは仕方ない。
ティファとマリンと一緒に温泉に入る関係で下着姿や裸を見せる場面があっても別段気にしないユフィだが流石にこれは気にする。
なぜなら相手はルインという他人だ。
流石のユフィも他人相手にはそう易々と下着姿を晒す事は出来ない。
それがたとえ同性であったとしてもだ。
「フフフ、冗談よ。エレンさんって可愛いわね」
「か、からかわないで下さい!」
淑女らしい怒り方をしてもルインはクスクスと上品に笑うばかり。
「もう!」と怒ってみせつつ洗面所へと足を運ぶ。
他人相手では少し恥ずかしいが、同性というのがせめてもの救いだ。
ルインが本物のルインであればの話だが。