萌えcanですよ

□ブラックコーヒー
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黒い雨雲が青空を覆い隠し、ザァザァと大粒の雨が降り注ぐ様をバスの中から眺める。
雨の日のバスは嫌いだ。
床はびちゃびちゃで滑りそうだし跳ねて服やコートが汚れる事だってある。
傘は邪魔だしうっかり足を動かそうものなら足についてズボンが濡れてしまう。
これがもしも夏の季節ともなれば最早悪夢だ。
バス内湿度と肌に張り付くようなベタついた不快感が格段に跳ね上がって気持ち悪いったらない。
加えて雨粒によってバスの窓から見る外の景色は歪められ、ありのままの姿の街を眺める事が出来ない。
それにちょっとでも息を吐けばすぐに窓が曇ってしばしば晴れてくれなくなる。

「・・・はぁ」

窓のヘリに肘をついていたヴィンセントは煩わしげに息を吐いた。
黒く長い髪、ルビーのように紅い瞳、女性顔負けの美しく整った顔立ち、スラリと伸びる長身。
つまらなそうに窓の外を眺めるその姿はまさに絵に描いたような光景で、バスの中にいる誰もが注目していた。
だが、注目される要素はそれだけではない。
このヴィンセントという男は若くして大人気作家であり、数々のベストセラーを生み出し、その美貌もあって老若男女問わず絶大な支持を得ている所謂有名人なのである。
一応、黒のサングラスで顔を隠しているが、やはり分かる人には分かってしまうらしい。
少し離れた席では若い女性二人が、どちらからヴィンセントに話しかけようかとヒソヒソ話しているのが耳に入ってくる。
煩わしくなる前にとヴィンセントは停車ボタンを押した。

『次、止まります』

アナウンスが流れ、同時に二人の若い女性や他の客たちが落胆する空気が伝わって来るがそんなもの知った事ではない。
間もなくバスはバス停に車体を寄せると動きを止め、ブザー音の後に自動ドアが開いた。
ヴィンセントは素早く立ち上がると黒いコートをたなびかせながら運賃を払ってバスを降りた。

「さて・・・」

黒の傘を差し、辺りを見回す。
幸いにも沢山の住宅や建物が建ち並ぶ街に降りれたらしく、店を探すのに事欠かなさそうだ。
なるべく人が少なく、長時間執筆の為に居ても問題なさそうなカフェ、それが今ヴィンセントが探している店だった。
勿論そういった理想の店は滅多にあるものではなく、あったとしてもカフェのマスターがヴィンセントの来店にはしゃいで他の客に吹聴し、余計な客を呼び込んでしまい、結果ヴィンセントが寄り付く事が出来なくなってしまうのである。
逆にカフェのマスターが空気を読んで黙っていてくれても常連客がそれを漏らしてしまう。
有名人なのだからある程度は仕方ないとはいえ、こうした事にヴィンセントは辟易していた。
だったら自宅に篭って執筆していればいい話しなのだが、なんとなくいいアイディアが浮かばないし、自分でコーヒーを淹れるのも億劫だ。
それにこうして理由をつけないと買い物以外で外に出る理由がほとんどなくなってしまう。
取材旅行なんてものもあるが、費用がかかるから頻繁に行く事なんて出来ない。
流石にこれでは不健康だと担当編集のリーブにも咎められた為、気分転換のついでにヴィンセントはこうやって執筆出来る環境を探して外を歩き回っているのだ。
そして今回のターゲットとなる店をヴィンセントは早速見つけた。

「あそこにするか」

自分が立っている場所の右手側、角の店の一つ手前にあるこじんまりとした小さな黒塗りのカフェ。
『カフェ・キサラギ』という看板を掲げた店のドアには『OPEN』なんて札が掲げられているものの、窓から覗く店の中は客が一人もいない。
いるのはカフェの店員であるだろう少女だけだった。
もしもあの店員が自分のファンだったらと思うと気が重いが物は試しだ。
嫌になればすぐに出ていけばいい。
意を決してヴィンセントは店のドアを押し開いた。

「いらっしゃ〜い!」

カランカランとドアベルが鳴り、可愛らしい外見とは裏腹に快活で明るい声がヴィンセントを迎える。
軽く店内全体を見回すが外見相応の小ささ、席の少なさに趣を感じる。
加えてコーヒーの上品な香りが店内を満たしており、ヴィンセントの好む空間が出来上がっている。
後はゆっくり腰を落ち着けられるかどうかだが。
ヴィンセントは店の一番奥にあるボックス席に目をつけると、少女に尋ねた。

「奥のボックス席に座ってもいいか?」
「え?うん・・・いい、デスケド・・・?」

カウンター席ではなくボックス席を選んだからか、はたまた敬語を使うのに慣れていないのか少女はぎこちなく承諾する。
そんな少女を気にする事なくヴィンセントは奥のボックス席に足を運び、黒のコートを脱いで座った。
メニュー表に手を伸ばして開いてみれば、どこの店にもあるような無難なメニューの文字が羅列している。
軽く目線を落としてからメニュー表を元に戻すのと同時に少女がトレイに乗せた水の入ったコップとおしぼりをテーブルの上に置いた。

「ご注文はお決まりですか?」
「・・・ブラックコーヒーで」
「ブラックコーヒー、と。ご一緒にスコーンとかケーキは如何ですか?」
「いや、いい」
「はーい。少々お待ちください」

最後の「はーい」は若干残念そうな感情が込められていた気がしないでもないが、この際知らなかった事にする。
それよりも椅子に深く座って腕を組み、ぼんやりと窓の向こうを眺めた。
未だ空は黒い雲で覆われており、絶え間なく雨を降らせ続ける。
雨というのも情緒はあるが、だからといって好きではない。
やはり眠たくなるような麗らかな陽射しを受けながら、ぼんやりとうたた寝したくなるような穏やかな晴れの天気でなくては。
あまり明るい方ではないヴィンセントでも晴れの方が好きなのである。

「お待たせしましたー」

ぼんやりと空を眺めていると、少女が出来立てのコーヒーをトレイに乗せてやってきた。
カタ、と目の前に置かれたコーヒーカップから立ち上る白い湯気とコーヒー特有の香りが鼻腔を満たし、ヴィンセントの心をリラックスさせる。
「ごゆっくりどうぞー」と言って立ち去ろうとする少女をしかしヴィンセントは引き止めた。

「少しいいか」
「ん?何?」
「ここはピークになると客でいっぱいになるのか?」
「んー、そうでもないかな。余程の事がない限り席を動いてもらう事はないから気にしなくていいよ」

少女の敬語が崩れて馴れ馴れしい口調になったがヴィンセントは気にせずに質問を続けた。

「おかわりは?」
「自由だよ。いつでも声かけてくれていいから」
「判った、ありがとう」

質問を終えると少女は再度「ごゆっくりどうぞ〜」と言うとカウンターの奥の引っ込んだ。
長居の許可を得られ、更に自分の事に気付いて、いや知っていなさそうなのを悟ったヴィンセントはそろりとサングラスを外した。
チラリと少女の方に視線を送るが少女は作業をしている所為もあってこれといった反応は示さない。
けれど、外から見られた時の対策用に伊達メガネをかけておく。
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