07/17の日記

16:39
読書
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久しぶりに更新してみます。

学校の現代文の授業で2学期以降に漱石の「こころ」を扱うということで、久しぶりに「こころ」を読み返してみることにしました。読み返してみると日本で文庫本としては「人間失格」と売り上げ1,2位を争うくらいに売れている理由が少し分かったような気がします。先生の遺書は手紙の形式としては確かにありすぎで非現実的ですが(400字詰原稿用紙で200枚あまりになるそうです)それでもページはどんどん進みます。元々新聞小説だった経緯があるからだと思いますが物語り文学、ドラマとしてみた文学として面白いという感想は容易に浮かびます。漱石はここで自分自身が時代遅れの人間であることを先生のことばによって言い表しています。明治天皇崩御、乃木大将殉死は漱石に少しずつ影響を与えます。この作品は先生だけでなく、明治というひとつの時代の遺書であるとも思えます。

大正期に現れた作家は明治とはやはり違う考えをしていました。ある作家は友情よりも恋愛を躊躇無く選んだ青年を書いています。大正期の作家に多いのはあるひとつのものごとへ他を犠牲にしてでも猛進する主人公を描く人です。漱石の弟子、芥川龍之介も芸術至上主義を表しています。

漱石が芸術至上主義などの流行を予期していたかはわかりませんが、僕は漱石は後の時代の人々(大正の人々)が明治の人々を冷淡に批評することになるというのは予期していたと思います。明治改元の1年9ヶ月前に生まれ、前の時代の戯作文学などを批判する運動を見てきた漱石は自分たちの時代もこのように批判されることをわかっていたんだと思います。だからこそ、「先生」という典型的な明治の人間に「自分は時代遅れの人間」であると述べさせ、自殺という形で明治と大正にひとつの区切りをつけさせた、そのように思います。

我執と時代に区切りをつけたこの作品は現代に通じる人間が描かれています。僕は僕自身を「先生」の考えを持ちながら境遇はKに近いなと、そんなことも考えました。

現在は三島由紀夫「絹と明察」を読んでいます。読み終わったら感想でも書こうと思います。

長文失礼しました。

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