Cuore Luna

□第七章 雷鳴山の悲劇 後編
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(……流されて、いく……)

薄れていく意識を必死に手繰り寄せようとしながら、タンジェリーナは感じていた。
冷たい、動けない、苦しい。
意識を手放せば、楽になれる。しかし、一度手を放せば、もう戻って来られないような気がした。だから、『使命』を為し遂げるまで、それはできない。

カルセドニーのバルハイトなら、この激流の中でも翼を展開できるだろう。
しかし、バルハイトの試作品であるがゆえに、アマゾナイトにはそれができなかった。何においても要領よくこなすタンジェリーナの最大の弱点と言えた。

(誰か……助けて、ください……助け、て……)

叫びは声にならない。ただ、ガボ、と気泡が漏れるだけ。
激流に抗うことができず、タンジェリーナは流れに身を任せるしかなかった。
しかし、強い意志の下で辛うじて掴んでいた意識も、限界が訪れつつあった。一瞬でも気を緩めれば、意識を手放してしまうほどに。

そのとき、誰かがタンジェリーナの手を掴んだ。
正確には、誰かが手を掴んだ気がした。
なぜなら――あるべき温度を、その手から感じられなかったから。

しかし、少女は自身の『使命』を投げだせなかった。
遂に少女は、その手を握り返した。
 

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「……う……ん」

タンジェリーナは全身を襲うひどい寒気に耐えられず、ゆっくりと意識を覚醒させた。
体を起こして辺りを見回すと、植物の乏しい岩肌ばかりが視界に入った。タンジェリーナの隣では、先ほどまで自分を押し流していた川が、相変わらずの勢いで流れている。黒い空からは、未だに雨が降り注いでいた。

(ここは、ブレーメのどこか……のようですね。ヒスイさんたちとは、はぐれてしまった……)

それを理解してからタンジェリーナはふと、自身の掌を見た。

(誰かが、私を助けてくれたような……?)

そんなことをぼんやりと考え始めようとしたとき、ジャリ、と地面を踏みしめる音が雨音に混じって聞こえた。

「!!」

タンジェリーナは反射的に、音がした背後を振り返り、ソーマの弓を構える。そして、目を見開いた。

「あな、たは……!」

激流に呑まれていたことによる衰弱と、目の前にある驚愕の事実で、タンジェリーナはその時まともに声が出せなかった。
ソーマを向けた先にいたのは――同様に激流で流されたはずの、クロアセラフだったのだ。

「いい人質になるかと思ってついでに引き上げたんだけど、そうもいかなそうになったね」

雨水と川の水でびしょ濡れになったクロアセラフが、なおも不敵に笑ってそう言った。
今更ながら、機械人というのは防水が施されているのか、と素直に思いつつ、タンジェリーナはクロアセラフに問いかけた。戦おうとか、逃げようとは思っていなかった。

「……あなたはどうして、クンツァイトさんにああまで執着するのです?」

なぜそんなことを尋ねたのか分からず、タンジェリーナは言ってから自分で驚いた。
クロアセラフもまた、不思議そうに首を傾げる。

「原界人の分際で、そんなことが知りたいの? 知ったところで、今ここで死ぬのに。って言うか……執着なんかじゃなくて、僕とクンツァイトはあくまで友達だよ?」

クロアセラフの腕の刃にタンジェリーナの姿が一瞬映って、消えた。
タンジェリーナは指先を弓弦に触れさせたまま――引き絞ってはいない――、小さくかぶりを振った。手は、寒さで微かに震えていた。

「機械人のスピリアには、人間の私たちと大きく違うところがあるはずだと、分かっています。だから、知りたいのです」
「…………」

クロアセラフが、黙り込んだ。
ややあってから、その口角がつり上がる。

「……ふふ、あははは! 感情に振り回されてばかりの人間が、感情を恐れる機械人に興味を持つなんて! ハハハハハ!」
「………………」

嘲るような笑いに、タンジェリーナは何も応えなかった。クロアセラフの言葉が、心の奥で引っかかっていたのだ。

(『感情を恐れる』……?)

クロアセラフは笑いを収めると、タンジェリーナを見て言葉を続けた。

「いいよ、話しても。クンツァイトが素晴らしい友達である理由、それは――ソーマを使えるからさ」
「ソーマを、使える……?」
「ああ。機械人が持つスピリアなんて、所詮偽物だ。スピリアの力で振るうソーマを、機械人に使えるはずがない。僕だってそうだし、前例もなかった」

クロアセラフは目を細めた。

「なのに、クンツァイトだけは違ったんだ。僕よりも遥かに性能は劣っていながら、ソーマを意のままに振える」
「……それと、リチアさんを殺すことは、何か関係があるのです?」

タンジェリーナは更に問いかけた。無意識に、そうしていたのだ。

「機械人全員が、偽物のスピリア――疑似スピリアを持っているわけじゃない。ただの『物』の方が多いんだ。どういうわけか、僕やクンツァイトにはそれが与えられた」

クロアセラフはそこで一旦言葉を区切ると、空を仰ぎ見た。
厚い雲が相変わらず空を覆っている。降り注ぐ雨は、一向に止みそうにない。

「望んでもいないのに、必要でもないのに、『物』に感情や意志、スピリアを与えられた苦しみや戸惑い、恐怖。数少ないスピリアを与えられた機械人であり、しかもそれが発達しているクンツァイトなら、その苦悩を理解してくれる。共有してくれる」
「…………」

饒舌に語っていたクロアセラフは、急激に声のトーンを下げて続けた。

「それを邪魔しているのがあの女――リチアだ。奴隷から解放された僕には分かる。リチアの存在が、クンツァイトを苦しめているんだ、ってね。だから友達の僕が、クンツァイトを解放してあげないといけない」
「………………」

数秒の沈黙の後、


「――分かりました」


タンジェリーナは言うなり、再びソーマをクロアセラフに向けた。
現れた矢の鏃が、白く輝き出す。

「!」
「与えられた感情や生き方でも、それを苦悩していても。クンツァイトさんにとって、リチアさんは大事な人であることは変わりません。リチアさんは、苦悩するクンツァイトさんの唯一の心の支えなのです」

クンツァイトは守るべき者――心の支えであるリチアのために戦っている。それが彼の『使命』だ。つまり、リチアがいなくなってしまうと『使命』は為せなくなってしまう。
その状況は、真に守るべき心の支えの人物が違うということを除けば、タンジェリーナと全く同じだ。
だからタンジェリーナは、クロアセラフを止めなくてはならないと思ったのだ。
手の震えは、その意志が打ち消していた。


「誰かを守り通す使命を妨げる人は、この私が許しません」


そう言ってタンジェリーナは、眩い輝きを放った。
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