Cuore Luna

□第七章 雷鳴山の悲劇 後編
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ヒスイはリチア、クンツァイトと一緒に木の下で雨宿りをしていた。
川の中州のようになっている少し広い陸地に、ヒスイたちはいる。つまり、その陸を囲うようになおも激しい流れの川が流れているので、彼らは移動のしようがなかった。
雷はだいぶ落ち着いている。この辺りは比較的高度の低い場所のようだ。なので、安心して雨宿りをしていられた。

「……何とか刃物野郎を追っ払えたな」

リチアによって川から救い出されたヒスイが、得意気な顔で呟く。
カナヅチの彼は、華奢なリチアによって激流から救い出されたのだ。それはリグナトル崩壊――サンドリオンの浮上のとき、南オールドマイン港でタンジェリーナと再会する前と続いて三度目だった。

『私、こう見えて泳ぎは得意なのです』

二度目の際、温かさを感じてヒスイが目を覚ました時に、リチアは胸を張ってそう言った。
一度目のときには、ヘンゼラ付近の海岸にシングとベリル、ガラドと共に流れ着いた。その中でヒスイが一番最初に目を覚ますと、リチアは気を失って倒れていた。シングに掛けられたクリードの術を破る思念術と、四人に使った回復術で体力を消耗したのだ。治療は完璧になされていた。

あのときまでは、こいつが許せなかったはずなのにな――そんなことを思いながら、ヒスイが「そう言えば、リーナは?」とリチアに問いかける。
リチアは目を伏せ、緩くかぶりを振った。

「リーナは川に落ちた後、すぐに流されてしまったのです……。体、軽いのでしょうね」

最後の部分は、心なしか複雑そうな表情だった。

「鎧着てるのにかよ!? ……でも、あいつなら大丈夫だ。そんな気がする。空飛べるしな」

もちろんそれは、タンジェリーナを信頼して言った。
しかしヒスイは、アマゾナイトの性能の限界を知らなかったのだ。


「……理解不能! リチアさままで巻き込むとは、どういうつもりだ」


ソーマ・ヴェックスを構えて、クンツァイトがヒスイに怒鳴った。感情表現の乏しいクンツァイトにしては覇気のある声。
しかしヒスイは、委縮や激昂する様子もなく、溜め息交じりに答えた。

「リチアを連れて逃げろっつったのは、てめぇだろうが。言われた通りにしただけだよ。それに、俺はこいつの言葉を信じたんだ。『泳ぎは得意だ』ってな。……文句あるか、リチア?」

ヒスイはリチアの方を見て問いかける。リチアは迷わずに、微笑みすら浮かべて答えた。

「いいえ。望ところですわ」

ヒスイは再びクンツァイトに目を向ける。

「さっきの刃物野郎は、おまえを『哀れな玩具』って言ってたけどよ。おまえも人形扱いじゃねぇか」

ヒスイは拳を作り、それをぎゅっと強く握りしめた。

「ただ守ればいいってもんじゃねぇだろ。必要なときには、きっちり協力してもらう。それが仲間ってもんだ」
「ヒスイ……」

思うところがあったのだろう、リチアが感慨深げに、しかし静かに彼の名を呟いた。
一方、クンツァイトはかぶりを振った。

「自分には、人の想いが理解不能だ。自分は偽りのスピリアが宿っただけの、でき損ないなのだろう」

クンツァイトは、彼らしからぬ表情――苦悩を湛えた苦しげなもの――を浮かべた。


「……ならば、こんな偽りのスピリアなど捨て、完全な『物』に戻りたい! ただの機械なら、クロアセラフとの性能差に恐怖を感じることなくリチアさまをお守りできるのに……」


感情を露わにしたその言葉に、リチアがハッとした。そして、静かに問う。

「クンツァイト……あなた、恐怖を感じているの……?」
「これが恐怖と呼べるのなら。百七十年前の自分には存在しなかったものです。ですが今は、クロアセラフを前にすると、明らかな性能の低下を感じるのです。これは『人』の言う恐怖と酷似しています」

クンツァイトは淡々と――しかしその奥では苦しみながら――そう答えた。
ヒスイは何と言うこともなさげに言う。

「なら、それに勝ちゃいいだけだろ。シングのバカはやってみせたぜ。あのバカにできて、てめぇにできねぇ訳ねぇよ」
「……理解不能。機械人の自分に、そんな日が来るとは思えん」

クンツァイトはそう言って、木枝の影の外に出た。振り続ける雨が、クンツァイトの体を打ち始める。

「クンツァイト……木の下に戻りましょう。少しは雨を避けられます」

リチアは哀しげな表情を浮かべつつ、優しい声色でクンツァイトに声をかけた。
しかしクンツァイトは、リチアに背を向けたまま空を見上げて素っ気なく応える。

「自分はただの機械です……雨にも風にも、何も感じない」
「…………」

リチアには、クンツァイト自身がひどく辛く感じているように思えてしかたなかった。
クンツァイトの口調は常に冷淡だ。その言葉が今では、苦しげな響きを伴っている。
その苦悩は、人間には計り知れない。

リチアは自分の小さな手を、祈るように握った。そして、優しく穏やかに、澄んだ声で口ずさみ始める。

「外は雨でも平気。泣かないで、目を閉じて。暗闇も怖くない。伝わる温もりが、触れあうスピリアに同じ夢を映すから」
「……!」

その歌を聞いて、ヒスイがハッとした。クンツァイトも、リチアに振り返る。

「その歌は……」
「もしかして、母さんの……?」

リチアは歌を止め、小さく頷いた。

「そう。昔、私がアイオラに教え、赤ん坊のあなたに歌って聞かせた子守歌。そして、遥かな昔……クンツァイトが『温かい歌』だと誉めてくれた歌です」

リチアは微笑みながら、胸に手を置いた。

「……本当に嬉しかった。だって、私の守護機士は、歌を温かいと感じる優しいスピリアを持っていたのですもの」
「………………」

クンツァイトはやや間を置いた後、「あれはただ、フローラさまの言葉を真似ただけです」と応えた。

「いいえ。私が嬉しいと感じる言葉を、あなたは選んでくれた。それがただの偶然のはずがありません」

リチアはクンツァイトの目を真っ直ぐに見つめて、言葉を続けた。

「クンツァイト、あなたなら必ずクロアセラフにも勝つことが――恐怖を乗り越えることができるはずです」
「リチア……さま……」

クンツァイトの声が、心なしか震えていた。ややあって、縋るような声で問いかける。

「本当に、そんな日が来るのでしょうか?」

リチアは小首を傾げ、少しいたずらっぽい――彼女の外見年齢に相応しい――笑顔を見せた。

「あら、私はあなたの主でしょう? 主の言葉を信じられなくて?」

リチアはそのまま、クンツァイトの手を取った。

「さあ、戻りましょう。雨は冷たくなくても、『人』は独りだとスピリアが凍えてしまうもの」

クンツァイトと木の下に戻ると、リチアは地面に座った。雨に濡れたエメラルドの髪が揺れて、煌めく。
そして、リチアは歌の続きを歌い始めた。

「雨雲を飛び越えて行こうよ、蒼い月。想いの翼はふたりでひとつ。外は雨でも平気。独りじゃないから口づけひとつ、今はおやすみ」
「…………」

地面に座ったヒスイは、懐かしいその歌に聞き入っていた。

歌が途切れたところで、黙り込んでしまっていたクンツァイトはようやく口を開いた。

「……リチアさま……ご無事で本当に……本当に良かった……。そう感じるこの想いだけは、誰かに設定されたものではないと……真に『自分の物』だと信じたい」

もしクンツァイトが人間だったなら――きっと、彼は泣いているだろう。
リチアは、隣に立っていたクンツァイトを座らせた。
そして、彼の硬い頬にそっと触れて言った。

「信じなさい。それは『あなただけの物』よ」
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