虹物語R

□第2Q「まだ、怖いんです」
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 「…失礼しました」
 少女は、相手に聞こえるか聞こえないかの、蚊の鳴く様な囁き声でぽつりと呟くと、恭しく頭を下げ保健室を後にした。
 長い藍色の前髪を、わざと顔が隠れるように調節してから、俯いたまま彼女は歩き出す。
 藍多凛は昔から他人が、怖かった。
 他人が自分を見る目が、怖かった。
 だから何時も下を向いて、相手から目を逸らして、顔を隠していた。
「藍多さん」
 ふと、抑揚は少ないが、何処か暖かみのある声音の言葉が降ってきた。
「ぁ、く、黒子くん……」
 聞き覚えのある声に、凛は思わず顔を上げる。
目を合わせるまではいかないが、彼女にとっては全くの他人よりか遥かに素直な反応だった。
「大丈夫ですか?」
 黒子テツヤ。同じ中学の、同じ部活で、選手とマネージャーという立場として関わっていた同級生であり、元チームメイトだった。
 ホームルームを終えて、姿が見当たらないので様子を見に来てくれたのだろう。相変わらず表情の少ない顔だが、心配しているらしく、僅かに眉根が下がっている。
「あの、大丈夫です……思ってたより、人が多くて……」
 他人に対して臆病だった凛には、新入生に対する激しい勧誘に耐えきれなかった。そのまま過呼吸を起こして立てなくなった結果、保健室に運ばれた。
 そのまま入学式を保健室のベッドで過ごし、ホームルームに途中参加する勇気も無く、今に至る。
「……あの。黒子くんは、やっぱりバスケ部に……」
「はい。そのつもりです」
「……そう、ですか」
 答えなんて分かりきっている質問だった。
 それでも、今一度、意思を確かめるように問いかけたことが今更烏滸がましく思えて、そして彼の進もうとする茨の道と、過去を想い、心臓が絞り上げられたように、苦しく傷んだ。
「そんな顔しないで下さい。藍多さんは悪くありませんよ」
 酷く泣きそうに顔を歪ませる凛の頭に優しく頭を乗せて黒子は凛をなだめる。
「藍多さんは、どうしますか」
「わた、私……は……」
 バスケ部に入らないのですか、と言う問いではなく、どうするのか、と言う問い。彼自身もまた、言外に、凛の意思を問いかけていた。
「まだ……わかりません。ごめんなさい…」
 何をしても良い。逃げても良いと、バスケ部の文字を口にしないことで伝える彼の優しさに、凛はただ、涙を零しながら甘えるしかなかった。
「まだ、怖いんです」
 きっと黒子は優しいから、肯定してくれるのだろう。無理をしなくて良いと、言ってくれるだろう。
 そのことに、きっと自分は甘えてしまう。安堵してしまう。それが分かっているから、凛は逃げるように小走りで彼の隣を通り抜けた。

 逃げたくない。
 だから逃げる自分を、責め続けさせて欲しい。

 それが今できる、彼女の精一杯だった。


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