幻夢録


□第一話
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本当に突然だった。
ふと気付くと、私は一人、ぽつんと佇んでいた。
とても静かで、音のない世界に取り残された気持ちだ。
どうしてここにいるのだろう、そもそもここはどこなのだろう、私はここで、何をしてるのだろう。
あらゆる疑問が頭の中を渦巻くけれど、答えてくれる人など誰もいなかった。

「っ……」

びゅう、と音を立てて強い風が吹く。
音のない世界から一変、辺りは喧騒に包まれた。
なんだ、人がいたんだと妙な納得をする。
徐々に五感が蘇り、足元から上がってくる冷たさに震えて目線を下げれば、小さな足が、白の上に立っていた。

「雪だ……」

どうりで冷たいわけだと思う。
どういうわけか、私は裸足で雪の上に立っている。
長い間立っていたかのように、指先は真っ赤に染まっていた。
足の小ささ、目線の低さに首を傾げ、私が着ている服の形、大きさにまた首を傾げ――――
どん、という後ろからの衝撃に耐えきれず、私は前に転がった。

「っとわりぃ、大丈夫か?坊主」

両脇に手を入れられて、起こされる。
雪がクッションになったお陰で大したダメージはなかったけれど、聞き捨てならない言葉を聞いた気がして、私はきょとんとその人を見上げた。

「寒く……ないの?」

思わず出た言葉。
それを目の前の男は豪快に笑い飛ばした。

「ははは!寒いかだって?俺は今駆け回ってるから、全然平気だ!」
「そう……ですか」

惜し気もなく胸板をさらけ出された男に対し、目のやり場に困った私は下を向く。

「坊主こそ寒そうじゃねぇか」

男の視線は、私の足にあった。
確かに足も、手も、着ている服が薄いのか、体の芯から私は冷えきってしまっていた。
今すぐ温かいお風呂に入りたい―――
ここにきて、初めて自分の望みが現れる。
けれど、そのためにどうすればいいのかが分からず、私は人知れず拳を握り締めた。

「おーいしんぱっつぁん!何やってんだ!早くしねぇと置いてくぞ!」
「お、おい待てって!」

遠くから男を呼ぶ声がして振り向けば、長い髪を高い位置で括った青年が、大きく手を振っていた。
その人もまた、すごく寒そうだと思ったけれど――――

「わりぃな坊主、俺今急いでてよ。もうすぐ日が暮れるから、早く家へ帰んな」

“しんぱっつぁん”と呼ばれた青年が私の頭を撫でて私の脇をすり抜けようとしたものだから、思わず青年の足を掴んでしまう。
当然のように、青年は前につんのめった。

「ぉわっ!おいコラ!何すんだ!」
「ぁ……ご、ごめんなさい」

慌てて手を離し、頭を下げる。
彼の足を掴んだのは本当に反射的で、何故そんなことをしてしまったのか、私にも分からなかった。

「ったく……どうした坊主、迷子なのか?」
「しんぱっつぁん!早くしろって!」
「ぉ、おお……」

“しんぱっつぁん”はとても優しい人なのだろう。
目尻を下げて、私のことを心配している様子がうかがえる。
知り合いの方から呼ばれて、急いでいて、行かなきゃいけないのに放っておけない、そんな感じだった。
私のために、この人を足止めするのは申し訳ないと思った。

だから――――

「本当に、ごめんなさい。お兄さんの足を掴んだのは、ちょっとした悪戯心です」

努めて明るい声で、私は言う。
彼の訝しげな瞳が私に向けられて、はぁ、と白い息が彼の口から漏れた。

「何だ悪戯かよ……。そんじゃ、急いでるんでもう行くぞ。お前も日が暮れる前に家へ帰れよ、夜は危ないからな」

くしゃくしゃと私の頭を撫でて、今度こそ“しんぱっつぁん”は駆け出した。
彼を追うように伸びた手を、私は慌てて引っ込める。
彼が見えなくなると、私の世界はまた、音がなくなったように感じてしまう。
言い様のない不安が沸き上がり、いてもたってもいられなくなって私は思わず駆け出した。

「はっ、はっ、」

短く息が切れる。
右を向いても左を向いても見覚えのあるものは何一つなく、知り合いにも出くわさない。
そもそも、どうしてビルの一つも建っていないのだろう。
雪のせいで今まで気が付かなかったけれど、雪の下に埋もれた地面は土だった。
どうして周りの人は、自分も含めて和服を着ているのか――――
考えだすとキリがないほどの違和感に襲われて、胸が苦しくなった。
一体今、私の身に何が起きているのか。
誰か、教えてほしい。

「はぁ、はぁ……」

雪の上を裸足で歩くのはとても辛く、私は早々と走るのを止めてしまう。
これ以上足を冷やしたくなくて、できることなら座り込みたかった。
けれどそれをしなかったのは、周りの人に変な目で見られてしまうのではないかという、私の妙なプライドが邪魔をしたからだった。
心はこんなにも助けを求めているというのに、素直に助けてと言うことが出来ない。
そんな自分が、情けなくて堪らなかった。
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