Event 1

□男の背中
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何を思ったのか突然の冬馬の吹っ掛けに
乗って、ジャム(セッション)になった。

まだ咲には難しいかと危ぶんだが、
意外にも彼女は食らいつき、しかも十分
楽しげに歌い切った。

その選曲が彼女メインで移って行ったと
いう事を除いても十分な成長だと思う。

これも真面目な彼女らしく基礎を疎かに
してこなかった賜物だろう。


そんな事を思いつつ鍵盤に指を走らせば
ふと気づく夏輝の視線。


「春、ノリノリだな。」


――何を言う。お前こそだ。

気持ちよさそうな顔をして、如何にも
満足!と顔に書いたお前には言われたく
ない。

そう思うも、…確かに鍵盤を滑る指は
滑らかで。

それが何となく悔しいのは何故だ。


だが



「…っ楽しいですね!」



目の前で誰よりも満面の笑みで歌う君を
見れば、この無表情も綻んでしまう。

少し息の上がった咲。
そろそろ休憩を挟まねば。

そう思っているのについつい先を弾いて
しまう。


仕上がりの良いライブの様に、即興の
ジャムで此処までの充実感はそうそう
無くて、思わず先へ先へと促してしまう
…だが、流石はリーダー。

其々が盛り上がり切ったジャムを上手い
具合に引っ張って、方向を舵取る夏輝。


冬馬がその意向を汲んでリズムを収束に
向ける。僅かな奴の抵抗とこのグルーヴ
(高揚感)への名残惜しさが急速なビート
となる。

其処へ皆で食い付き絡みつき Fin.



「――――…は…ッ、はあッ、ふ…ッ、
す…すごい、です…っみなさん…息も
切れてな……」


カクカクとその場に座り込み、咲が
ほにゃりとした笑顔で俺達を見上げる。

そんな彼女に手を差し出せば申し訳なさ
そうに握り返される小さな手。

その手を誘導し、俺の座っていたピアノ
ベンチの隣に座らせればふわりと漂う
彼女の甘い汗の香り。

夏輝がいつも彼女が鞄の上に置いてある
タオルでは無く、自分の未だ使ってない
タオルを手渡したのを「?」と思いつつ
そのまま見遣れば、いつの間に買って
来たのか、最近スタジオの自販機に
入った味付きのミネラルウォーターを
手渡した。


「あ…っ、ありがとうございます!
…わ、やったぁ、このミネラル水ずっと
嵌ってて! わざわざコンビニで探して
持ち歩いてたんですけどJADEスタジオ
にも入ったんですねぇ♡ 嬉しい!
今度からこちらで買おうっと」


そんな素直な彼女の言葉に夏輝が前以て
それを知ってて、スタジオ内の自販機の
品揃えに提言をしていたのだと知る。


「そう? 良かった。」


それでも何食わぬ顔をしてそう嘯く夏輝

こいつのこんな所には何時まで経っても
敵わない。相手の喜ぶ事を何のてらいも
無しに遣って退けるその気の細かさと
優しさには。


「ぅわ、なっちゃんズリぃ〜!
咲ちゃーん、何ナニ? それに嵌っ
ちゃってんの? 美味しい? ソレ。」

「はい、ほんのり甘くて後味がスッキリ
してるので美味しいんですよ?
あ、冬馬さんも飲んでみますか?
えっと私が口を付けちゃった後ですけど
…それで良ければ」



――っ?!


「飲む飲むぅ♡ 寧ろ大歓げ…イダッ」


ゴツッと硬い音がして冬馬の頬に彼女と
同じペットボトルが減り込む。


「…丁度良かった。もう1本、買ってた
んだ。やるからそれ飲めよ。」

「アダダダダ…ッ、な、なっちゃんっ
ひっでぇ〜〜〜ッ!」

「何が? 美味しい水を差し入れて
やってんだろ? 何が不満?」


「…それで足りないなら、
もう1本買ってやるが…?」


グリグリと冬馬の頬に水を押し付ける
夏輝に便乗してそう伝えれば、明らかに
顔を引き攣らせる冬馬。

その後ろから、呆れた笑いを浮かべた
秋羅が愛用の煙草を出しながら喫煙室へ
向かって行く。


「休憩だろ? 先入ってるぜ?」

「ちょ…待ってよ、秋羅サン…っ」


情けない声を出し、秋羅と共に喫煙室へ
向かう大きな背中。

その背中をクスクスと笑いながら見送る
咲の目にはまだ恋情は無い。
その事に安心しながら、でもあの計算も
無く天真爛漫に見える男の…本能的で、
またタイミングを逃さない勘の良さは
けして侮れない事は重々承知している。

ジクリ…と焦れた感じを持て余し、ふと
見れば同じ表情の夏輝が居て。


「…油断ならないね。」


その言葉は誰に向けたものなのか。

そう頭の隅で思いつつ「ああ」とだけ。


そう、彼女を狙う狼は…うちのメンバー
だけではない。行く先々で男女問わず
老若問わず惹きつけてしまう彼女。

そんな彼女を特別視しているのは勿論
俺だけでは無く。


彼女を見出した山田さん
彼女を俺に紹介した夏輝
彼女を磨く俺

そして冬馬は勿論
秋羅まで

惹かれているのは明らかだ。


先程の冬馬を見れば一目瞭然だし、
夏輝が彼女を特別視しているのは全員が
とっくに気付いてる。

ただ、
初心な彼女には未だその余裕は無い。

元からその手に疎いのか
今は歌に必死過ぎて其処まで回らない
だけなのか

それは定かではないが
彼女にはまだ誰も受け入れる態勢がない
のは事実だろう。

そんな中、一番の脅威はあの自然体で
人好きする大男。本能的で野性的な奴は
分かりやすい雄のフェロモンで女性を
惹きつけるから。


水城冬馬とはそんな男なのだから。




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