Event 1

□ご機嫌な彼
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――参った。

咲ちゃんは何時だってスルリと
俺の心の奥にまで入り込む。

土足で上がり込むような不躾なものじゃ
無くて、気がつけば俺の胸の奥、その
深い場所でゆったり座って微笑んでる
みたいな。

今も。

バイクを置いて、エレベーター乗って。
部屋の前まで来た時は、ただウキウキ
ワクワク、正しく『カノジョ』の待つ
部屋に入るオトコの気持ちだったのに。

鍵を開け、部屋から漂ったふわりとした
甘い香り。

そこには食事の準備もされているのか、
砂糖醤油の甘辛い香りも仄かに漂い…

笑顔の咲ちゃん。
温かな部屋。
甘やかなホットケーキの匂い。
小さな部屋に満ちる気配。

記憶が蘇る。

あの、子供の頃母と住んでいた安い
アパート。
貧しかった、でも幸せな記憶。


『お帰りなさい』


微笑みとともに返される言葉。

そんな、記憶の底に沈んだ幸せの記憶が

彼女と居ると蘇る。
鼻の奥がツンとするようなあの感覚。

小さな彼女に
ギュッと抱き締められたまま
立ち尽くす。

彼女の名を呼んで

玄関先で靴も脱がないまま
ただ立ち尽くして。

涙は出てない。
今にも出そうな感覚だけど
まだ、出てない。

きっと泣いたって
彼女は受け止めてくれるだろうけど
去年のように。

でも、それは御免だ。
二年連続彼女の前で泣く誕生日なんて。

男の沽券とか小さい事かもだけど、
俺は彼女に頼り甲斐のある男として
見て欲しくて、欲しいのは咲ちゃんで
あって、母親の代理の彼女じゃ無い。

そう思うから。


何度も呼んだ彼女の名。
尊いその名。

愛しくて、胸の奥から絞られるみたく
出てくる愛しい名。


…咲ちゃん…

俺の、咲ちゃん。


「はい。」


また、無意識に口に出してたみたいだ。


「咲ちゃん、…好きだ。」


思いは溢れて止まらなかった。

声に出て、彼女に囁いた。
ありったけの想いを込めて。


彼女はギュッと更に強く俺を抱き締めた

…まるでそれは「私も」と言ってくれて
いるようでもあり、「知ってるよ」と
受け入れてくれているようでもあり。

胸の奥に溢れるのは
唯ただ愛しいという感情。

彼女が好きだ。
愛してる。

他の何にも代え難いほど。


ここまでの想いを感じた事はなかった。
今まで。

普通に恋愛をしてきた筈だ。

愛も語り、
抱き締め、抱き締められ、
ベッドを共にし、
ケンカや修羅場を潜り、
仲直りも別れも経験して。


それなのに
こんなにも胸を締める感情は知らない。

こんなにも
息苦しいほどの愛しさなんて


彼女にだけだ
咲ちゃんにだけ
こんなにも狂おしい愛しさは

愛しくて愛しくて
恋しくて苦しくて

それなのに
感じる、胸を満たす幸福感。


こんな神聖なほどの想いなのに
彼女に感じてるのは情欲でもあり…
俺は衝動に任せて、俺を抱き締めてる
彼女の顎を掬い上げ…唇を寄せる。

この想いの深さを伝えたくて。

もうとっくに伝わって、彼女がこんな
俺ですら受け入れてくれてると判ってて
それでももっとって思って。


「ん……っ、ふ、……は、ぁ…っ」


角度を変え、深く唇を合わせて。
彼女との口づけが甘く感じるのは
いつもの事だけど、さっきまで俺の
パンケーキを作ってたんだろう、
ふんわりと香るバニラの香りと舌に
感じる砂糖の甘さ。

思わずフッ、と笑って


「咲ちゃん、甘いね。
頭からペロリと食べちゃいそう。」

「も、もう…っ!
亮太くんからかってばっかり…っ」

「からかってないよ。ね、本気で全部…
食べちゃってもいい?…咲ちゃん
ぜーんぶ。」

「へっ?! い、今っ?! あの、お誕生日の
お料理やパンケーキは…?」


真っ赤んなって、ウルウルした瞳で
俺を見上げて、そんな事言って。


――あーもぅ、可愛い。


靴を脱ぎ、よくよく部屋を見渡せば…
テーブルには俺の好きな料理ばかり。
どれもこれも、彼女の作る料理は全部
美味しくてそう伝えてた筈なのに、この
テーブルに乗ってる料理は俺が本当に
美味しくて、もっと食べたいと思った物
ばっかりで。

彼女が「冷めちゃったけど…」って、
俺のせいなのに申し訳なさそうにして
持ってきてくれたパンケーキは今年も
綺麗で豪華で美味しそう。

彼女も食べたいけど、先ずは…彼女の
手作りしてくれた美味しいものから。
…彼女自身も相当絶品だけどね。
なんて。

そんな何処ぞのおっさんみたいな事を
思いながら、彼女をもう一度、今度は
俺からギュッと抱き締めて。


「ありがとう。」


てらいもなくそう伝えて。

彼女のほんわりと赤く染まった笑顔を
愛しく思ったまま撫でて、またギュッ。


――あーダメだ、抱き心地良すぎて
全然離せないや。


もうコレってかなりの重症。
スキンシップ、そんなに好きじゃ無い
俺がこんなにも離れ難くて。
私生活、踏み込まれたく無い俺なのに
彼女となら一緒に住みたくて。


こんなにも。



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