Novel


□パウチ
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「ただいまー」


――シーン……


…そりゃそうか。
もう夕方はとっくに越えてるし、もう
仕事に出ちゃったよな。


あーもう、チクショ。
今日は折角咲が夕方まで休み
だっていうから早く帰りたかったのに!

選りに選って、今日、朝からどうしても
外せないクライアントとの話し合いだ
なんて。

しかも春ももう少し譲ったってバチは
当たんないだろーに、クライアントの
売り出し中の商品名を歌詞に入れ込む
のを渋って話が全然進まないって…。

でも、まぁそりゃそうだよな…、元々
完璧主義の春からしたら、自分の曲に
途中で手を加えられるのなんて、それは
耐えられない事だろうし。

うん、俺も春の嫌がる事はさせたくない
から、別案提示してその話はまた次回に
持ち越そうと思ってたのに、頑として
『それは出来ない』って断言しちまって。
…そんなの話し合いだって紛糾するに
決まってるじゃないか。

それさえなきゃもう2時間は早く帰って
来れたのに。あーあ、もう…っ。


俺を出迎えて足元に纏わりつくミィを
抱き抱え、癒しのモフモフに顔を埋め
ればほんのりと咲の香りがする。
基本香りの強い香水とかは一切付けない
彼女だけど、シャンプーなのかボディ
ソープなのか例え俺が同じ物を使っても
俺からはしない、甘い彼女の香り。

いっつも彼女の膝が定位置だからか、
その残り香というか移り香がミィから
するのに気付いてからは、実は密かに
ミィをモフりながら匂いを嗅ぐのが
最近癖になってる俺。

ヤバイよな、変態臭いよな。
彼女にバレないようにしなきゃ…
そんな事を思いつつリビングに入った。


……ん? なにア……、レっ?!


ガタタッ!
「イッて!!」


慌てて駆け寄って、ソファセットの
ガラスのテーブル面に足をしこたま強く
ぶつけてしまった。

ガラステーブルの上にはパウチ袋。
…そう、咲のハンカチの入った
アレ。


「えッ、何でコレ何処にっ、って、や…
見つけたの、咲?! ッヤバ…!」


ガシッとハンカチ入りのパウチ袋を
掴み、狼狽える。ヤバイ、これは流石に
言える訳ない。

いやいや待て待て…別に現場を押さえ
られた訳じゃなし、…うん、単に袋に
入ったハンカチを見られただけだし?

…でも、不審に思ったからこうして
テーブルの上に置いてるんだよな?

単に見つけただけってんなら、さっさと
洗濯籠に入れるだろうし。



…そう、それは俺が巻き込まれた事件で
一時期離れ離れになってた頃に大切に…
言うなれば、俺の『命』とすら言える
くらいに大事にしてた物。

ずっとそばにいるって約束をした側から
離れなければいけなかったあの頃…、
強制的に別れさせられた俺は、咲と
会うどころか…JADEの活動や通常の
日常生活すら制限させられていて。

今では思い出したくもない、いや、
忘れると決めた日々だった。

そして、俺らはあの事件の解決後やっと
もう一度この日常を取り戻し、今では
思い出す事も無くなってただけに…
その頃の俺の命だった“コレ”はまるで
開封したてのレトルトパウチのように
当時の記憶をまざまざと思い出させた。


――当時、俺はとある屋敷に軟禁されて
いて…しかもその屋敷の病弱なお嬢様の
『付き添い』を命じられていた。
性的な関係を含まない『恋人関係』と
言う名の何一つ歯向かう事は許されない
『契約奴隷関係』。

咲の身を盾に取られた、俺には
断る術のないその関係の中、俺は只管
(ひたすら)咲を想い、でもそれを
『ご主人様』である少女に悟られない
ように過ごすしか出来なくて。

…そんな中、唯一の救いがこの彼女の
ハンカチだった。

俺に一方的に別れを告げられ、二人の
家を追い出されるように出て行く準備を
してた咲の忘れ物。


…ああ、あの時の彼女の姿が鮮やかに
眼に浮かぶ。震える細い肩、俺には
華奢な背中を向け荷物を詰める咲を
どれだけ…引き留めたくて、それだけは
出来ないと扉に凭れ、腕を抑え込み
歯を食いしばって見ていたか。


……胸が痛い。

彼女のしゃくり上げる肩が…その肩を
滑り落ちる髪が…遣る瀬無くて、辛くて
…それを掻き上げる事は…触れる事すら
俺にはもう出来ないのだという絶望感が
真っ黒な思いで胸を覆った。

全てを捨てて逃げようとも思った。
でも、もしも失敗して捕まった時には…
今より酷い状況が彼女にまで待ち受け
ているのだという恐怖でその手は取れ
なかった。

何よりも、自分自身よりも大事な人。
そんな彼女にまで及ぶ危険は全て避け
なければ…そんな思いだけで承諾した
奴隷契約だった。


あの頃の気持ちにリンクする。

続いた眠れない夜。あの契約を迫られ
カウントダウンされる日々、咲の…
温かで柔らかな肌だけが救いだった。

終わり行く日々、
咲だけが愛しくて。


あの、痛く苦しい、あの気持ちに。




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