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□傷口に砂
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傷口に砂

雪が溶けてやっと暖かくなるという頃、こいつは私を海に誘った。断る理由があれば良かったのに、その理由をもうなくしていた私は二つ返事で頷いた。ジーンズを履いてきて良かった。まだ海は寒くて、とてもいい気分にはなれそうもない。風が強くて髪が口に入りそうだ。ザク、ザク、ザク、こいつはどんどん波打ち際へと近づいていく。私もそれに続きながら、お気に入りの靴が砂まみれになる光景を自分でも驚くほど無表情な顔で見下ろしていた。それでも、げんなりとしている私とは違いこいつは元気だ。昔、海が青いのは空の青を反射しているからだと聞いたことがある。それなら空が灰色なら海も灰色になるのだろうか。しかし実際、海の色は灰色よりも黒に近い色だった。美しくない。燦々と輝く太陽と青い海ならパラダイスかもしれないけれど、灰色の空に黒い海っていうのは辛気臭くてデートには向かないだろうな。そう、これは、デートなんかじゃない。

「なあ。」

振り返らずに私を呼ぶ声。波の音に掻き消されそうだったので、会話できる距離まで歩を進める。ああ、お気に入りの靴は砂でぐじゅぐじゅで、なんだか私まで惨めな気持ちになった。

「俺、別にお前が好きとかそういうわけじゃない。」
「うん。」

知ってる。これは傷の舐め合いだ。

かつて私たちが好きだった人は、私たちの手の届かない遠くへ、遠くへと行ってしまった。私は全く知らなかった。そして彼の親友であったこいつもまた、知らなかったらしい。私達は二人して仲間外れで、置いてけぼりにされてしまったんだ。ふざけるな。一言くらい言ってくれたっていいじゃないか。酷すぎる。なのにこいつは彼のことを恨んではいないようで、恐らくそこには女である私には分からない何かがあるのだろう。知りたくもない。 私はもうウンザリで、どうだっていいんだ。私はその場にしゃがみこんで砂を手で掬った。それは思ったより乾いていて、掬った傍から風に拐われた。掌に収まりきれず零れ落ちていく砂を、私は無言で見つめる。・・・・・あの人のことを思い出す。私では掌の中に留めておくことが出来なかった彼を。砂のように零れ落ちていった彼を。私は掌に残った砂をぐっ、と握り締めた。勢いよく立ち上がって振りかぶり、海に向かって叩きつけた。だけど、叩きつけたというのには砂が軽すぎて、実際にはほとんどが風に拐われていってしまった。いつだって私の思い通りにはならない。嫌い。はは、こいつはそんな私の姿を見て、少し笑った。その顔には失意は浮かんおらず、私のように己の非力さにじたばたしたりもしない。

「なあ。俺が好きなのはさ、」
「うん。」

知ってる。言わなくても分かる。なのに今になって宣戦布告されても私は困るだけだ。しかし、彼はそうは思っていないらしい。 私達は置いてけぼりにされてしまったんだよ、と伝えるには、彼が落ち込んでいなくて逆に言うのが憚られた。なんで。なんでそんな顔が出来るのか分からない。そこには何があるっていうんだ、夢ばっか見て、男は馬鹿だ、それに意味分かんなくて嫌い。

「・・・」

私は一握りの砂を風に逃がした。

(それは彼の結婚式から、3日後の朝のこと。)

逃げたかったのはきっと私。

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