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□伝えられない
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ドクン、ドクンと脈打つ音は、決して私の心音ではない。薄く眼を開いてみても、映り入るのは相変わらずの真っ暗な闇。私は何故またここに戻ってきてしまったのだろう。虚ろな意識の中ぼんやりとそう思案した。私はあの人が怖かった、それは確かな事実だ。彼に色を与えてもらったあの日から、あの場所で得たものは、両腕にも抱えきれない。けれど、毎朝眼を覚ます度、幾ら新しいものに記憶を塗り替えられても、ずっとずっと脳の真ん中を掴んで放さない。そんな絶対的存在があの人であるのも、また確か。肺が握り潰される様な苦しさも、叩き潰される様な頭の痛みも、決して慣れるものではない。けれど、抵抗もせずに戻ってきてしまった。大切にしてくれた皆に、別れの言葉さえ告げずに。

どうしたら良いのか。何を信じたら良いのか。自分は何がしたいのか。考えれば考える程に分からなくなっていく。ぐるぐる回る思考回路と心身負担に意識を手放した。





走っているのか、自身のものではない荒い息遣いが耳に入ってくる。規則的な振動も、それによるものなのだろう。ゆっくりと眼を開いた。

「眼が覚めたか!?」

大丈夫か。痛くないか。苦しくないか。揺れが負担にならないか。自分を案じる言葉ばかり掛けてくる彼の声がどうにも懐かしくて、あの場所で過ごしたあの日々がまるで数十年前の出来事の様に思えてしまう。私は震える指先で彼の肩を掴み、揺れる言葉を弱々しく紡いだ。

「…何、で。」

言葉は沢山覚えた筈だ。使い方は勿論、文法も単語も、沢山。それなのに、どうして出てこないのだろう。何を言っていいのか分からない。何が言いたいのかは解っている。それなのに。

「…あ、あた…し。」

ごめんなさいでも、ありがとうでもない。もっと重たくて大きな言葉。今の気持ちをどうしよう、どうして伝えられないのだろう。

「何も言うな。」

そんな私に彼はそう言った。



伝えられない
(その気持ちは知っている。言葉になる筈がないだろう。)

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