元拍手文

□魔、来たりて
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「ねえ、これ外してよ」
「……ダメです」

カリカリと木戸を爪で引っ掻く音がする。
綱吉は爪の跡がくっきりついてしまうほど強く自分の手を胸の前で握りしめながら答えた。
そうでもしないと、蠱惑的なあの声にあっという間に飲み込まれ、護符を剥がしてしまうだろう。

「無駄なあがき」

ふふふと笑った低い艶のある声は、それ以上何を言うでもなくそっと闇に溶けて行った。

完全に気配が無くなったのを確認し、綱吉は詰めていた息をそっと吐き出した。
吐き出した息と共に全身の力が抜ける。
あの妖は最近並盛に流れてきて住み着いたもので、自分のことを「雲雀」と名乗り、あっというまにこの一帯を自分のものにしてしまった。
白い開襟シャツとマントなど着ているものから判断すると、どうやら大陸の向こう側から来たようだ。

あの妖――雲雀、と綱吉が出会ったのは逢魔が時。
黄昏の中、夜を背負って立っている彼となにかの運命のいたずらかそれとも必然だったのか、道の途中でまさに文字通り、出くわしてしまったのだ。
綱吉は初めて雲雀を見た時を思い出し、その時感じた身を貫くような感覚を振り払おうと、ふるりと身体をふるわせ、ぎゅうっと自分の身体を守るように抱きしめた。
彼はとてもとても強い妖。魔。
目を閉じれば夕闇の中でもはっきりと存在を主張する真っ黒い髪に切れ長の瞳が思い出せる。
――あの魔はいけない。
綱吉の中の声が警告する。

綱吉はとても古い巫女の末裔だ。そのせいで、綱吉の幼少時代は魔から逃げるのに必死で、鬱々とした色に塗りつぶされたものだった。
綱吉には生まれながらにして力があったのだ。
けれど力だけあってそれを扱いきれず自分の身もろくに守れない未熟者の綱吉なんて、魔にとって格好の餌食であり、簡単に捧げられた供物となってしまう。
だから綱吉の周りは綱吉を守るあらゆる策を講じてきた。
「綱吉」、という女の子なのに男の子の名前も、魔を欺くためのものだった。綱吉の身を案じた祖父が付けた名前だ。
祖父はあまりに強い力を持って生まれた綱吉を案じて、自身と共に山の中に隠してしまおうとしたのだが、綱吉の両親はやっとできた一人娘を手放したくなかった。
そこで、やはり魔を欺くために、綱吉に男の子の格好をさせることを条件に、綱吉は14歳まで父母の下で暮らしていた。

けれど、綱吉は人間社会の中でも上手くやれなかった。
魔は、魔として存在しているだけではない。
時として彼らは人に巣食い、人に紛れて暮らしている。
そんな魔を綱吉はなぜだか見抜いてしまうから、綱吉は人間の中にいても安心できなかった。
魔も人も怖い。
怖いものと目を合わさずにすむように、いつも下を向いて怯えながら暮らしてきたのだ。

そんな綱吉に限界が来たのは14歳のころ。
もう男装も限界、というときだった。
ついに綱吉に施されたざまざまな守りを破って、魔が綱吉に手を出してきたのだ。

その時はたまたま上手く逃げれた。
でもきっと次はない。
限界を迎えて、綱吉の両親は綱吉を泣く泣く手放し、祖父に預けることにした。
それからの綱吉は、魔に食べられてしまわないために、必死に修行を重ねてきた。
ダメダメだったけれども、最近ようやく力を付けてきて、近隣に住む魔程度ならなんとか一人で除けられることができるようになった。
でも、まだだ。まだ到底一人前とは言えない綱吉なんて、強い妖怪に対峙しては一発で食べられてしまうだろう。
綱吉に毎晩護符をはがすように強請ってくるあの魔は、そういう「強い魔」の類である。
幸い、高名な祓魔師である祖父が作ってくれた護符は異国のあやかしである彼にも効くようで、彼は夜と共に綱吉の前に現れても、戸に護符の貼られた部屋の中に入ってくることはできないようだ。
つまり祖父の作ってくれた護符だけが綱吉の命綱だった。
その祖父も、今は並盛にいない。あの魔が現れる少し前、依頼を受けて魔を祓いに行ってから、なぜか帰宅していないのだ。

「じいちゃん、はやく帰ってきて……」

一人取り残された結界の中で、綱吉はぽつりと哀願するように呟いた。




はっと起きて綱吉はしまった!と声を上げた。
毎晩毎晩飽きもせず、護符を外すように強請ってくる魔の者と朝日の気配がするまで戸越しに対峙している綱吉は、連日の疲れから、居眠りをしてしまったようだ。
日がすでに大きく傾いている。
急いで夜の準備をしなくてはならない。
しっかりと戸締りをして、そして安全な境界の中で息をひそめて朝日を待つのだ。

家中の扉や窓をくまなく閉めて回り、次に雨戸を閉めようとしたとき、細い赤子の泣き声のようなものが聞こえた。
おや?と綱吉は首を傾げ耳を澄ませる。

「ぁーーー」
「猫、かな?」

集中して聞いてみれば、どうやら声は赤子のものではなく、猫のようだった。
猫は一向に鳴きやむ様子がなく、とても悲しげに声を響かせている。
しかもなんだか声がどんどん小さくなっていっている気さえする。

「どうしよう……」

綱吉は急に心配になった。
そういえば数週間前におなかの大きな猫を見かけた。
もしかしたらその猫なのかもしれない。怪我でもしたのか。
でも。
綱吉はじっと空を見つめる。
まだ淡い水色をしている。
夕暮れ、そして夜が来るまではまだ間がありそうだ。
あの魔は、いつも夜にやってくる。始めて逢ったときだって、夜を背負って立っていた。
魔の中には、活動時間が限定されているものもいる。
もしかすると夜に力を得るタイプの魔なのかもしれない。
それなら今はまだ大丈夫だろう。
綱吉は巫女装束をはためかせ、誘われるように庭へと躍り出た。

「にゃー出ておいでー」

生い茂った緑色の草をかき分けて、できるだけ優しい声で猫を呼ぶ。
たしかこのあたりから声が聞こえていた気がしたのだけれど?
きょろきょろと視線を左右に走らせたとき、背後の草むらが揺れ、がさりと葉を踏む音がする。
猫が呼びかけに応えてくれたのだろうか。

嬉しそうに振り向いた綱吉は、次の瞬間全身を硬直させた。

「やあ?散歩かい?」

そこに立っていたのは魔だ。あの、黒髪の、魔。

「ひっ」

綱吉は息をのむと、一目散に家へ向けて走った。
あの中へ入りさえすれば。
入って、戸を閉めないと。じゃないと、綱吉は。

何度も袴の裾に躓きそうになりながら走った綱吉が、戸に手をかけたとき、轟音とともに戸に張っていた破魔の札が紫の炎で燃え上がった。

「あ、あ……」

へたりと尻もちをついてしまった綱吉のすぐ後ろに、立つものの気配がする。
気配の主は自身もそっとしゃがむと、優しく綱吉を背後から抱きしめた。

「ああ、やっと捕まえた」

弾んだ声に、しっかりと綱吉の身体に回されているかたい腕。
ぞくぞくと、恐怖だけではない感覚が身体を走り抜ける。

つい、と顎をすくい上げられ、視線の先には魔の恐ろしいほど整った顔。
黒い瞳は爛々と燃えている。

「怖かっただろう?これからは、僕が君を守ってあげるから」

告げると、雲雀は綱吉の唇を奪った。

「んんっ」

優しく、けれど拒絶を許さない、契約の口づけ。
どくりどくりと流し込まれる魔。
もう、きっと戻れない。
初めてこの魔に出逢ったときから、自分はいずれこの魔のものになるだろうと分かっていた。

「よろしくね?僕のお嫁さん」

恍惚とした声を聞きながら、綱吉はずっとあった予感が、ついに綱吉に追いついたのだと、魔の腕の中でぼんやりと思ったのだった。



 

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