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□絶望
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締め付ける絶望


眉間から顎に向かって汗が流れた。
心臓はバクバクと大きな音を立てて脈打ち、全身に酸素を送り続ける。荒い呼吸とアスファルトを蹴る音以外何も聞こえない。
俺は一旦足を止めて荒い呼吸を整えるために深呼吸繰り返した。キリキリと痛む横腹を摩って額の汗を拭う。
冷え切った空気が肺に満たされ少し身震いをする。周りを見回し小さな背中を探したが、この辺りにも見当たらない。
彼は何処に居るのだろう。
肩に掛けている通学カバンがずり落ちていたのを掛け直し、ただでさえ練習で酷使し疲れた足を軽く叩いてから再度走り始める。
この先には商店街に近道出来る大きな公園があったはずだ。そっちを探してみよう。もしかしたら彼が居るかもしれない。
走りながら俺は西谷がΩとは全く気づかなかった事を呪った。
もちろん西谷は西谷で真面目に抑制剤を飲んでフェロモンが漏れ出さないように慎重に調整をしていたのだろう。
だけど、今日は少し違った。
部活中に彼に近づくと、微かだが確かに彼の細いうなじから甘い香りがした。
甘い物でも食べたのかと思ったし、甘い食べ物が好きな俺としてはその甘い匂いの食べ物を食べてみたいと思い、何気無く聞いてみると、西谷は一瞬ギョッとした表情を見せた。だが、本当にそれは一瞬の事で、すぐ屈託のない笑顔を浮かべ「最近発売されたばかりの制汗剤の匂いじゃないっすか?」と西谷は遠慮なく力一杯何時ものように俺の背中をバシーンと叩いた。
じゃあ、あの一瞬驚いた顔はなんだったのだろう。その時はそれ位にしか考えていなかったので、そうなのかと半分納得して練習に戻った。
だが、部活が終わり、珍しく西谷が自主練も坂ノ下商店での買い食いもせずまっすぐ帰ると言い出した時は驚いた。
もちろん俺だけじゃなく部のメンバー皆がだ。
何時もなら真っ先に俺の元に寄ってきてやれ、自主練しましょうやら、坂ノ下で買い食いして帰りましょう…と満面の笑顔で寄ってる来るのに。
バレーボールを手の中で回転させてぼんやり考え込んでいると、僅かに…要注意してないと感じない位のあの甘い香りがした。西谷と同じ匂い。
その方向を見ると日向と影山がスパイクの練習をしていた。
二人に近寄ると日向の方から漂って来てるのだと気づき、思わず間抜けな質問をしてしまった。
そうー
『西谷と同じ甘い匂いだけど、何処の制汗剤?』
と…
その時になって初めて日向から聞かされた。この匂いはΩが発情期に入った時の匂いだと。日向自身も実はΩで近々発情期に入る頃だから微かにフェロモンが漏れ始めたのだろうと教えてくれた。
そして、西谷が完全に発情期に入っていて、あれだけ匂いが漏れているという事は、どうやら抑制剤を飲み忘れたのか飲んでないみたいだと…
「このままだと家に帰り着く前にヒート状態になりますよ。」
ヒート状態ー
日向の言葉を思い出し背筋がゾクッと冷えた。Ωのフェロモンはαを強制的に魅了する。たとえそれが同性であったとしてもだ。
第二次性徴が始まる頃に学校の保健体育でこれらに関しての授業が数時間確保されていた。
その時は皆はまだ楽観的だった。大抵の奴らはαやΩより圧倒的に多いβだと信じて疑わなかったからだ。
だが現実はそう甘くはなかった。
国家の規約により受けなくてはいけない血液検査。それを受けたクラスメイト達に大きな変化があった。
今までクラスで大威張りしていた奴が実はΩだと分かり、コソコソと気配を消して教室の隅で目立たないように過ごしだしたり、根暗で虐められっ子だった奴がαで堂々とし急に横暴な態度をとりだしたり…
その時になって俺たちは初めて格差社会の恐ろしさを思い知らされた。
ちなみに俺はαだった。
両親もα同志でいわゆるエリートみたいなもんだ。
だが、俺はΩのフェロモンの匂いを知らなかった。知らなかったというのは正確ではないな…興味が湧かなかったが合ってるかもしれない。
というより、血液云々で差別とかそういったのが嫌いだったし、今の抑制剤は効能もよくて副作用もないので、キチンと規約を守って使えば殆ど分からないらしいからだ。
本格的に発情期が始まるのが、個人差があるとはいえ大体十代後半らしい。早い奴で中学三年生といったところか…
俺はまた一つ息を吐き出して、思考を止めた。
くそっ!どんだけ馬鹿なんだよ!
ちゃんと考えれば甘い匂いの制汗剤なんか売っているわけないじゃないか!
いつも近くに居たのに、西谷がΩだと気づいてやれなかった!フェロモンの匂いだと知っていれば家まで護ってあげれたのに!
産まれて初めて心から好きだと思える人間に出会えたというのに!
「ちくしょう!」
顎から今にも滴り落ちてきそうな汗を拭う。気付けば公園の入り口まで来ていた。
激しい呼吸を深く息を吸って暴れる心臓の音を聞きながら園内に足を踏み入れた。
とたんムワッとむせ返る程の甘い匂いに包まれ頭がクラクラした。
これが誰の物かは分からないが、これがΩのヒート状態になった時の匂いなんだろう。体にネットリまとわり付くような甘いフェロモンの匂いがダイレクトに脳に響く。
まさか西谷…じゃないだろうな?
頭の中で色々な状態が予想された。
我慢できなくなって公衆便所でヌイているとか、動けなくなって遊具の影で見えないようにうずくまっているとか…
いや、まだそれは良い予想だ。
実は恋人が既に居てイチャイチャしているとか…
あ、これは俺が失恋するだけで西谷自身には大したダメージではないか。
一番想像したく無いのが…
見知らぬ奴に無理矢理襲われているとか…
俺の頭の中がカッと沸騰した。
握りしめた拳に短く切り揃えていた爪が食い込むのもお構い無しだ。
叫びたくなるのをグッと堪えて気持ちを落ち着けようと細く息を吐き出す。
そうだ。落ち着け…落ち着け…
完全に煮え切った頭じゃ正しい判断は出来無い。
深呼吸を繰り返し頭の中をクリアにする。大きく脈打っていた鼓動も次第に落ち着き始めた。
そうだよ。いくらこの匂いがΩ特有のフェロモンだからって、絶対それが西谷のだとは限らないじゃないか。
数少ないとはいえΩという存在があるんだ。他のΩの匂いかもしれない。
このうまそうな匂いに食指が動きそうになるのを耐えながら公園の中を慎重に歩き、まず公衆便所に近づいた。
切れかかった蛍光灯がジジッと音を立て着いたり消えたりをくりかえしている。
だが他には何も音はしないー無音だ。
すぐに離れて今度はコンクリートで作られた登り山に近寄り、全てのトンネルを覗き込んだ。
誰も居ないー
と…なると…
顔を上げて周りを見渡すと、水銀灯の弱々しい光の中赤い物体が落ちていた。
強く心臓が鳴った。いや、鷲掴みされたように痛くなった。
見憶えがある。あるってもんじゃない!
あれは…あれは西谷の赤い通学カバンだ!
駆け寄り拾い上げる。中身は空っぽ。
西谷は…何処だ!何処にいる!
不吉な予感に大きく心臓が鳴り始める。
苦しい…
ザッと周りを見渡すと視界の隅でキラリと何かが光った。
近寄るとその正体がすぐに分かった。西谷がいつも使っているスタッズベルト…
何で…どうして…
ベルトがココに落ちているんだ。
怖い想像しか出てこない。
震える手でそれも拾い周りに耳を澄ませる。何か聞こえるかもしれない。
自分の心臓の音が大きくて聞き逃してしまいそうだ。
だけど、茂みの方から微かに人の話し声が聞こえたのを確かに俺は聞き逃さなかった。
胸を締め付ける絶望感を覚えながら俺は声のした方に足を向けた。






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