その他SS

□水底に沈むとき
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疲れたなあって思うときがあったっていいじゃないか、なエレンと兵長。
・・・・・・・

とぷり、水に沈む。
分厚い水は声を遮断して、期待も、罵声も、畏怖も、何も俺に届けないだろう。
ゆらゆら揺れる水面は、そのまなざしも、表情も、どんな類のものかわからなくさせてくれる。
ああ。
誰もいない水底に沈んでいけたらいいのに。


こぽ、と一つ気泡を浮かべて、ゆっくりと目を閉じる。
頭の中がふわふわとしてきた頃、腕をとられ勢いよく引き上げられた。
驚いた拍子に水を飲んでしまったようで軽くむせこんだ。
冷めてしまったぬるい湯につかりながら浴槽のふちに身を預け、ゆるりとその人を見上げる。

「なんのまねだ」
「…すみません」
上から降る侮蔑の滲む声に、淡々と返す。
感情を少しでも加えれば、とたんにぐずぐずになることはわかっていた。
「寝ちまってたってわけじゃなさそうだな」
答えずにいれば小さな舌打ちのあと踵を返された。

「着替えたら食堂に来い」
きっとお説教が待ってるんだろうな。
できれば見られたくなかったなあと心の中で呟き、身支度をして食堂に向かう。
ロウソクが二つ灯されただけの薄暗い明かりの中、テーブルの上には温かな紅茶が用意されていた。
「…っ、…兵長が淹れてくださったんですか?」
驚き問いかければ、他に誰がいると返ってきて口ごもる。
「いいから座って飲め」
促されて隣に腰を下ろし、口をつけるとふわりと優しい味がした。
あたたかく、やさしい。
数回カップを傾けて腹の中に流し込むと、静かな声が耳に届いた。
「まあ、今日みたいな日があってもいいんじゃないか」
たった一言。
事情も心情も理解して、責めるでもなく受け入れようとしてくれる。
この人は優しすぎる。
「…兵長は…怖くなったりしないんですか?」
ふと口をついて出た言葉を境に、堰を切ったようにあふれだした。

「怖くなったりしないんですか?どうやって乗り越えてきたんですか?
 教えてくださいよ。自分の判断で、自分の力不足で…人が死ぬのにどうやって耐えてきたんですか?」
あの時俺が。
「あんないい人たちを…俺は…、俺が…!死なせてしまった……ッ」
選択を間違わなければ…!

カップを強く握りすぎた指先が白む。
言葉を詰まらせて押し黙った俺の手を、兵長はゆっくりとほどいて掌を取った。
「なあエレンよ。
 悔やんだところで何か変わるのか?そうやって自分を責めて誰か救われるのか?
 それであいつらが報われるならそうしよう。だが、そうじゃねえはずだ」
ことさら静かに語る口調は責めるでもなく。
言われている意味は十分に理解できるけれど、頭では分かっていても、心が追いつかないでいる。

「一秒先、次に死ぬのは俺かもしれない。おまえの馴染みかもしれない。
 だが生き残った者は死んでいった者の意思を継ぐ義務がある。
 その権利もだ」

権利。
意外な言葉に、何度か瞬きを繰り返す。
「兵長は、重く感じたりしないんですか」
「あいつらの残した意思がここにあるから、その分俺は高く飛べるし、先へ進もうと思える」
思いを託されるってのはそういうことだ。
そう言って空席になったテーブルへと視線をやり、ゆっくりと俺に向き直った。

「…おまえの肩にかかる重圧や期待は、普通の新兵とは違うんだろう。
 てめえのその年ですぐ乗り越えられるとは誰も思っちゃいねえよ。
 一人で抱え込むな周りを頼れ。おまえはあいつらから、そう学ばなかったか?」
脳裏に過ぎ去った日々がよぎる。
手に刻まれた揃いの痕。
化け物だと恐れられるのが当然の俺を見守って支えようとしてくれた、確かな存在。
「……学びました…っ」
瞳が膜を張り、唇が震える。
取られた手を握って堪えようとしたけれど、じわりじわりと滲みだすのを止められそうにない。

「すみません…泣くのは、あの日だけにしようって決めたのに…」
「溜め込むと碌なことにならねえよ、…クソと同じだ」
「はい…っ、…」
いつもの兵長の口癖に笑って返そうとしたけどうまくできなかった。
緩む視界はまるで水底からの景色に似ていて、静かな声が耳にやさしい。
真綿にくるまれるようなあたたかさの中で、俺は涙と共に瞼を下ろした。

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