【5】
□Creep
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【Creep】
眼鏡のこいつの手の平には一直線に迷い無い傷跡が残ってる。
「…仕事で遅くなるそうです」
「ま、何時ものことだな」
泡の消えたビールを呑み干して、さっさと強めの酒に切り替えたのはここに腰を落ち着けて待つ気だろうから。
並んだカウンター、生憎あたしはこいつ……こいつとこいつの連れみたいに酒は強くないから残ったビールを少しずつ消費させてもらう。
「あいつ『お仕事』が忙しいんだろう?」
「ええ」
無意識に開いた手の親指で傷跡をなぞる癖はたまにしか会わないあたしでも気付いてる癖だから、きっと毎日一緒にいるあいつはこの癖なんて見慣れていて。
見慣れていて、その度に苦い思いをしているんだろうな、そこまで考えて。
「…自業自得だけどな」
「は?」
「いや、何でもない」
そう言い放ったのはあいつと、そして隣にいるこいつへと。
『自業自得』
そう言い切れるのは……その時に散々な目に会わされたから。
…何年前になるかは忘れたけど。
深夜になったチャイムに首をかしげて、それでもドア穴から覗いた先にいたのは意外なヤツで。
― どうしたんだ?
そう尋ねようとして…
「どうした!?」
ドアを開けた後に思わず声が裏返ったのは仕方のないこと。
「お待たせー」
暢気な顔して一時間遅れで現れた女に眉をあげることで抗議を示して、それでもこの女はあたしの顔なんて見てないから抗議は何時になっても伝わらないまま。
「待ち慣れてるから」
遅れた女にそう言うヤツには全く怒りも呆れも無くて、こっちが二人相手にまとめて呆れた気分にさせられる。
毎回毎回、遅れるだろうって想定をして待ち合わせをしてるあたしもあたしだけど。
「お前、いい加減こいつに『仕事と私どっちが大事なの?』くらい聞いた方がいいぞ」
「聞かれたら『そんな質問させてごめんなさいね』って抱きしめてキス付きで謝るから」
「…ああ、そんな返し方しそう」
ご機嫌に笑う女と対照的に苦く笑って、無意識にまた親指は手の平の傷跡をなぞるから。
意識してなかったのに顔をあげた瞬間に視線があって。
『何か飲む?』なんて暢気に聞いてあたし達の視線に気付いていないヤツを挟んだまま、共犯者めいた気分にさせられる。
「…お願いがあります」
かしゃん、と落ちたのはこいつのコートの隙間から。
ぎこちなく血にまみれた手で落ちたそれを拾うから。
右手はポケットに入ってたから左手でぎこちなく人の部屋の玄関に落ちたそれを拾おうとして、さらにがしゃがしゃと人の部屋の玄関にとんでもない物をぶちまけるから。
「…自首するなら付き合うけど、先にあいつが生きてるかだけ教えろ」
かしゃん、左手でまた拾おうとして血のついた包丁を取り落とすから拾ってやって。
血の気の引いた顔で他にも落ちてる物を拾おうとするから。
「……つか、何ではさみまで持ってんだよ、お前は」
「…あの部屋に刃物を置いて来れなかったからですよ」
床に散らばった大量の刃物を途方にくれて見つめた後、差し出された右手を今度は見つめて。
…こっちの方が重傷そうだと検討を付ける。
「頼みが『病院につれて行け』って言うならここに来ないで直接行きゃー良かったんじゃねーの?」
もちろん、こいつの頼みがそんなことじゃないのくらいは承知で言った言葉は血の気の引いたヤツをなぜか笑わせる効果があった。
「二人で食事してても良かったのに」
「お前抜きでこいつと食事なんぞしようもんならどんな目に合わされるかわかんねーからごめんだ」
「ひどーい。私がどんな目に合わせると思ってるの?」
「まあ、ひどい目だとは思いますよ」
「二人してひどい。病的な独占欲は不幸しか呼ばないのよ」
「病的な独占欲による大惨事なら経験はしたことは無いけど、見たことはある」
目だけでまた手の平の傷を差して。
その傷が隣にいる女の手の平で隠されるのを見届けた後に顔を上げれば、二人とも気にしない顔でグラスに口をつけてるからあたしだけがおかしいみたいな気分にさせられる。
鍵は預かっては来たけど玄関の鍵は開いていて。
きっと、あいつが飛び出した時のまま。
鍵も部屋の明かりも呆けたみたいに座ってる女も。
「…おい」
「………何してるの?」
最初にしたのは血まみれの両手を確認してこいつに怪我はない事を確かめること。
これ、全部あいつの血か…って呆れるより早く、こいつの呆けた顔を見つめてあいつがこの部屋にある刃物を全部持って逃げ出したのは正解だったのかも知れない、と。
「行くぞ」
「深夜にいきなり入ってきてそれってさすがに親しき仲にも礼儀あり、じゃない?」
「どっかの眼鏡が出血多量でぶっ倒れてもいいならそうするけど」
実際に動けなくなる程度にはへばってた。たぶん、あの状態じゃ一人じゃ立てないだろうし。
「…剃刀って予想以上に切れるのね」
「だな、そんくらい予想しろ。いいから行くぞ」
まだ立ち上がらないから、きってこいつは立ち上がることすら忘れてそうだから。
実力行使に出たのはこいつを保護するまでは病院に行かないと言い張った眼鏡が本当に出血多量で力尽きてたらヤバいと思ったから。
「……本当は手の平以外も切ろうと思ってたんだけど」
肩に担いだ女の呟きは聞こえなかったことにする。
もう一度だけ。
― あいつが部屋から刃物を全部持ち出したのは確かに正解だった
…子供の頃のおイタは確かに誰にでもある。
度を過ぎれば警察沙汰になりそうなことも…まあ、たまにはある。
「…あたしは気にしないで二人で喋っていいんだけど?」
「「はい?」」
昔を思い出してる間、隣に座ってる二人が黙りこくってるからそう振れば二人して不思議そうな顔。
ああ、そうか、だよな。
― 夫婦みたいだな
そう言えば喜ばせるだけだから(ニケけた途端にこの眼鏡はとんでもないマヌケ面に見える)口にはしない。
まあ、そりゃそうだ。
これから同じ部屋に帰って同じベッドに寝て同じ部屋から仕事に行くんだから、それを毎日やってりゃ喋ることなんて無くなる。
…喋らなくても通じ合う、なんて馬鹿馬鹿しいとは思うけど。
二人して手の平の傷を親指でなぞってんだから、きっとこいつらの考えてるのはあたしと同じこと。
こいつらの思い出してるのはあたしと同じこと。
「…なあ」
あの時には聞けなかったけど、今なら聞けそうな気がして。
「何であの時に別れなかったんだ?」
金の為に体を売ってたヤツと。
他の女に触れなくなるように恋人の手の平を切り裂いた女と。
普通ならその時点で終わってる。
「「綾那(紗枝)以外はありえなかったから」」
声をそろえる夫婦もどきに呆れて鼻で笑いながら手の平をひらひら振って。
あの時に聞かなかった理由は今更に思い出した。
馬鹿みたいにお互いに繰り返す『ごめんなさい』に区切りをつけて。
(案の定、この眼鏡は紗枝を連れて部屋に帰った時には死にそうな顔をしてた)
血まみれの無道を病院に担いで行った所為で汚れたシャツを見下ろしてどっちに弁償させてやろうかと考えながら、それでも聞かなかったのは……そう思わなかったから。
『二人が別れる』って想定が自分の中には無かったのも今考えれば凄い事実。
「…言ってろ、この馬鹿夫婦」
無道の手の平の傷はまるで虫が這った後みたいに真っ直ぐで、その時の紗枝に迷いが全く無かったのが伝わってくる。
迷い無く愛してたんだろう、って……本当に…。
「ん、玲の評価がとうとう『夫婦』になったけど、どう思う?」
「私からすればやっとか、って感じだけど」
「綾那、私と結婚したいの?」
「紗枝がしたいなら」
「そのどっちでもいいって態度が気に食わないー」
「今更、離れられると思ってるなら大間違いだから」
「……うん、確かに」
― 無道さん
― 祈さん
そう呼び合っていたのがいつの間に変ったのか、そんなことすら知らないけど。
ゆっくり、ゆっくり、と。
『もう少しだけ近く』がここまで近づいてんのは……少しはあたしにも感謝しろよ、お前ら。
「もし今後こいつが浮気したらどうすんの?」
「「相手を殺す」」
「……んなとこまではもってんなよ、この馬鹿夫婦」
END
(13/11/28)