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□無道綾那の呼び方について
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【無道綾那の呼び方について】




「綾那」

そう呼ばれた瞬間、心臓が凍ったのは何かを予感したから。
そして、その予感は間違っていなかったから。

「…あたしは出て行ッからな」















「上条さんはどうして名前で呼ばないんです?」

問いかけたのは私の恋人で。
だけど、敬語だったからこっちを見ていても問いかけた相手は私じゃなくて槙さんだろう、と返事はせずに。
だけど、そう言われれば何でだったかな…?なんて記憶が定かじゃないのも答えなかった理由の一つ。

「ああ、それはね」

違和感無く私が祈さんの家に滑り込んだように、この人もここにいても違和感が無くて。
家族ぐるみの付き合いなんて…!て祈さんと2人して冷静になってしまって渋い顔で顔を見合わせたのは最近のこと。

「最初に会った時に私が名前を知らないから『斗南さんの妹さん』て呼んだらむくれた無道さんに『斗南じゃなくて無道』って反論されたのがきっかけかしら」

律儀に背は低い癖に態度だけはでかい子供にそう言われて『じゃあ、無道さんと呼んだらいい?』と真剣に答えてくれた顔が不意に思い出されて。
ああ、そうだった、なんて。
馬鹿が付く生真面目さはあの頃からで。
それが今も全く変らないのは槙さんの性格ゆえ。

「そういう祈さんは?」
「私ですか?んー、言っていい?綾那」

わざとのように人を名前で呼ぶから、悪ふざけだと分かっていてもドキっとしてしまうのは、もう、脊髄反射で。

「そんな重大なことみたいに言ってますけど結局その呼び方はジョーカーで取っておきたいだけでしょう?」

今の通り。
たったそれだけで、名前を呼ぶだけで心拍数をあげられる事を知っているから。
お願い事やおねだり(言っておくが性的な意味では無い)をしたい時、その呼ばれ方をされるだけで骨抜きにされる自覚はあるし。
そして、骨抜きに出来る自信を持ってるんだろうし。
…………まあ、アノ時に『綾那』って呼ばれるアレが一番くるけど。
(いや、もう、本当に。アノ時の「綾那っ…!」てアレに暴走しないならたぶん不能者だと思う)

「私のジョーカーそれだけだと思われてるなら心外ー」
「いや、思ってませんから安心してください」
「なるほど…、そうやって切り札を握っておくことも大事なのね…」
「変な事は学ばなくていいですから、槙さん」

第一、槙さんの切り札なんてその存在自体だ………、って2人のどちらも気付いてなければ確かに切り札じゃない気もするけど。
関白な亭主は実は尻にしかれている事実を本人達が気付いていないのが不思議なところでもあるけど。

「だけど…」

祈さんがこっちを見つめるから、話の流れからもたぶんそっちに話しが行くだろう、と。



「斗南さんも無道さんを名前で呼ばないわよね?」
















『チビ』だの『ガキ』だの『コゾウ』だの。
なんだか不名誉な呼び方はその内に慣れてしまって、そう呼ばれた時には反対に『誰を呼んでんの?』ときょとんとしてしまったくらいで。

「綾那」

廊下から居間をのぞきこんで言い争う2人をこっそりと見ていたから、後ろに柊さんが立ったことには気付かずに。
『誰を呼んでるの?』と首をかしげた後に似合わない真面目な顔で私を見るから。
そこでやっと呼ばれたのは自分だと自覚したと同時にその呼び方は緊急事態だと、頭の中で警鐘が鳴り響く。
何時だって身軽な柊さんの足元には、今日はなぜか大きな鞄があるのを見て、ああ…、て。
嫌な感じに胸が痛くなったのはきっと。
言い争う2人を見ても平気だった心臓が今はなぜか凍ったように痛いから。

「あたしは出て行ッからな」
「………ん」

じくじく、と凍ったそこが痛い。
だけど、奥歯を噛んで凍ったそれが溶け出して瞳から零れないように。

「メンドーに付きあわされンのはもーウンザリ」

逃げ場なんてきっとこの人にはいっぱいあって。
それこそ、あの生真面目な恋人の部屋に転がりこむこともこの人には簡単で。
むしろ、わざわざここに残っていたのは、私のためかも、なんて、自惚れで。
きっと、もう、この人と会う理由も無くなる。
何時の間にか廊下には暗闇が満ちていて。
光源の居間の明かりはそっと柊さんがドアを閉めたことで届かなくなってて。
むしろ、情けない顔を見られないためにはこの闇は好都合。
『気をつけて』や『元気で』なんて、言葉も吐けない子供は何を口にすればいい?

「柊さん…」

言いたくない。
たけど、言わないと。
闇に紛れてまた奥歯を強く噛んで。

「だから…」

ああ、やだ、ね。
それなら、最初から、この人も、あの恋人も、優しくなんてして欲しくなかった。
今さら、名前でなんて呼ばないで欲しかった。

「…トットと荷物まとめて来い」
「………………へ?」
「『へ?』じゃネーって。こんなトコさっさとおさらばすンのがいいって」

心臓だけじゃなくて頭まで凍ってるみたいに柊さんが言ってる意味が分からなくて。
だけど、闇の中慣れてきた眼で見上げれば薄く笑ってるから。

「なさけねーツラしてネーで。来んの?来ねーの?」

差し出された手の平に必死でしがみ付いて。
必死に必死にしがみ付いて。

「…………行く」

また心臓の辺りが痛くなったけど、それは凍った心臓が溶け出したせい。

「…柊さんに付いて行く!!」


















「…うん、私も聞いたこと無いわね。斗南さんが無道さんを『綾那』って呼ぶの」

頭を過ぎった幼い頃の記憶に苦く笑って。
今ならあの時の柊さんが私を連れて行くかどうか迷ったんだろう、ってそんな事の想像もつくけれど。

「一度だけ呼んでくれた事、ありますよ」

たぶん、あの人はあれで決意を固めんだろう……、なんて憶測でしか無いけど。

「どんな時?」
「…秘密です」

あの時に必死で握った手も腕も………まあ、未だに顔は見上げるけど。
今なら逃がさないために掴むことも簡単に出来るようになったのは、身長とともに心も成長したから。

「んー、じゃあ、斗南さんに直接聞く。呼び出しまーす」
「……祈さん、その携帯番号は私の知らないヤツなんですけど?」
「……私が登録してるのとも違うわ」
「あ、斗南さん?もしもーし、1時間以内にうちに来ないなら大事な奥さんと妹さんがどうなっても知りませんからね。え?何でこの番号知ってるかって?まあ、そこは気にしないで。……あ、妹さんが奥さんにあんなコトやこんなコトをっ…!駄目よ、無道さん!」

そうまくし立てた後に顔いっぱいで笑いながら(こういう無防備に笑ってる祈さんはまた特別に可愛い、って話はまた別の時にするとして)携帯を私と槙さんの方に差し出すから。

「斗南さん、助けてー」
「……上条さん、棒読みすぎ」

祈さんにさらに笑われてしょんぼりしてる槙さんの肩を祈さんと両方から叩いて。
スピーカーになって無いお陰で柊さんが何と言っているか分からないから。

「はやく迎えに来てください」

笑いながらそう言って、それからこう付け足した。




「おねーちゃん」




きっと電話の向うで気持ち悪そうにしかめっ面を作っているだろう柊さんを想像して笑って。
それから、反論が返ってくる前に通話を終えた。



















「……ナんすか、今の?」

賑やかしいと言うか、やかましいと言うか。
いきなりかけてきた挙句に散々好き放題言って切れた通話に呆れて。
(大体、ホントにあのオンナは何でこの番号知ってる?)

「キショク悪ぃっーの」

最後の一言は静かに照れくさそうに付け加えられてて。
なーに、照れてんだよ、テメエは。
なんて口にしようにも、もう通話は終わってるし(わざわざ掛けなおす気も無い)、頬が引きつったのはキショク悪いからで。
こっちまで照れてる、なんて…………ああ!キショク悪ぃ!!!
時計を見て、今の位置を頭の中で計算して。

「…一時間なら、まあイけるか」

知らないふりして置き去りにしてもいいけど。





…それじゃあ、あたしが楽しくない。




END
(14/06/10)

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