短編
□私をどうか、お許しください
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また、朝が来た。昨夜はよく眠れなかった。泣き続ければ疲れて眠れるだろうと思っていたが、結局気が立つばかりで眠れなかった。
目がいつもの半分くらいの大きさしかない。酷い顔。鏡に映った自分を見て溜息を吐く。気休め程度に氷を当てておく。
……どうすればいい?
混沌とした頭では、答えのない疑問が浮かんでは消えていった。どうすればいい。どうすることもできないのに。
私だってきっと利用されてたんだ。
八年前からここに居ると言った時の、あの嬉しそうな顔が蘇る。どうして気づかなかったんだろう。少し考えれば分かりそうなものだったのに。
…それは、その少し考えることから逃げていたことに、違いないのだけど。
頭はぼんやりと霧がかかっているみたいに淀んでいた。痛い。頭も…心も。
秀一様と顔を合わせたくない。普通に、今まで通りに接する自信がない。そこで唐突に理解した。――あァ、あの子も、こんな気持ちだったんだ、って。
その上子供までいたのだ。もっと辛かったに違いない。
バカな私。こんな気持ちを知りもしないであの子を慰めようとしてたなんて。
思わず自嘲してしまう。あぁもう…ヤダ。頭が重い。くらくらする。
気分を変えようと外に出る。何日かぶりの食堂へ向かう。朝はまだ早く、人はまばらだ。それでも私の姿を見つけた知り合いがとてとてと駆け寄ってきた。
「瑠璃!久しぶりじゃない!最近どうなの?」
ぎらぎらと情報だけを狙う浅ましい瞳。いちいち対応しているような余裕も無く、適当に返しておく。
「あっ!さっきライ様と明美様を見たよ!あの2人ってさァーどうなのかね?」
『付き合ってるよ』
椅子を引いて、その場をたつ。食器をまとめて運んでいこうとすると、後ろからその子は飽きもせずおしゃべりを続けてきた。
「今日もなんだか親密そーな雰囲気でさァ、二人で外に出てったわよ。ズルいよねぇ。彼女持ちの小姓ってキツクない?瑠璃はどこまでやったの?ねぇねぇ、教えてよ!あの女みたいに妊娠とかしちゃったの?ねぇ!」
思わず手がでそうになったが、なんとか我慢した。大声を出しそうなのをこらえて、声をだす。
『ついてこないで』
そう言うので精一杯だった。友達のことも、秀一様のことも、言いたいことも、聞きたいこともたくさんあった。だけど口からでたのはその言葉だけだった。
流石に私の空気がいつもと違うことに気づいたのか、それ以上は食い下がってこなかった。食堂なんてくるんじゃなかった。二人で外に出ていった。その言葉を聞いたとき、胸がずくんと重くなるのを感じた。
一体何を期待してたんだろう。自分の愚かさに笑えてくる。
何もしたくなくて、もう一度自室に戻る。扉に寄りかかって、部屋のどこかをぼんやりと見つめる。
こんこん、と扉がノックされた。思わず身体が跳ね、返事をかえす。――はい、どなたでしょう?
「…瑠璃?いるのか?」
足元が、崩れるような錯覚を覚えた。否、実際に私の膝は崩れ、そこに座り込んでしまった。
その声は紛れもなく秀一様の声で。一番聞きたくなくて、それでも安心するくらい大好きな秀一様の声。
返事はしなかった。できなかった。今、声を出せば、泣き出してしまう、と思った。
「どうした…何かあったのか」
どうしてそんな言葉をかけてくれるの。ただの道具としか思っていないくせに。
「昨日の事なら謝る…悪かった」
どうして謝るの。謝ってくれなくてよかったのに。そっちの方がずっと良かった。謝るってことは、本当に…あのキスは、何の意味も無いものになってしまう。
…まだ、少しでもあのキスに意味をもたせたかったの、私は。…情けない。
ふっと口元に自嘲的な笑みが浮かんだ。
「瑠璃……」
何も答えない私に困ったように言葉を詰まらす秀一様。そんなの、全然気にしてませんよ。だとか、明美様を泣かすなだとか、用意していた台詞はひとつも口からでなかった。
ごめんなさい、秀一様。
私はそんな言葉を、貴方に告げられるほど、大人ではないんです。
そして、どうして私を利用したの、って、貴方を責められるほどの、度胸も無いんです。
利用されるのは苦しいのに。貴方の気持ちが無いことなんて分かっているのに。
それでも私は、まだ貴方の道具でありたいと願ってる。貴方の残った優しさに、温もりに、ずるずるとしがみつこうとしてる。
嫌われることよりも、道具として扱われることよりも、
貴方が私から、完全に興味を失ってしまうことの方が怖いんです…。
扉を一枚、隔てた向こう側に、秀一様の気配を感じる。
だけど私には、開けられない。開けて、一体どんな顔をすれば良い?何を話せばいい?
「瑠璃」
秀一様がもう一度私の名前を呼んだ。それだけで心がじんと熱くなった。
「………待っていろ」
それだけを言い残し、秀一様の気配が消えた。
待っていろ?
この期に及んで…貴方はなんて酷いことを言うのでしょう。
そんなこと、本当は望んでいないくせに。
本当に待っていたら、困るくせに。
貴方はズルい。貴方の言葉ひとつで、私の心はがんじがらめになって、動けない。抜け出せない。
恋心ってやつは、本当に、どうしてこんなに厄介なんだろう。
…貴方が私を見ていないと、分かっていながら、どうして私は…まだ、少しでも期待をもってしまうんだろう。
…こんなことなら、あなたに出会わなければよかった。
…こんなことなら、あの場所で…誰にも拾われず、死んでいればよかった。
…こんなことなら、この気持ちが、恋に違いないものだと…気づかなければよかった。
…あの子が、深入りするなと言っていたのは、こういうことだったのだろうか。
だけどもう…遅い。
もう、何もかもが手遅れなのだ。
待っていろ。
いっその事…彼の言う事を信じてしまおうか。
力の入らなくなった、手を、ぎゅっと握りしめてみる。
そうだ…どうせ利用されて、苦しい現実を見なければならないのなら。
どうせそうなら、彼の甘美な夢に…酔ってしまうのも、ひとつなのかもしれない。
待っていよう。
漸く足に力が入った。壁を頼って立ち上がってみる。
彼の言葉通り、小姓らしく、命令に従って。
彼が私のもとへ来る、その日まで。
私は彼の小姓なのだから。
少しだけ、心が明るくなった気がした。今なら、秀一様とも前と変わらず接することができる気がした。
私は、見返り何て求めない。
私はただ、命令に従う道具に徹しよう。
そして、彼が精一杯私を利用できるように、彼が望む機械になれるように努めよう。
…だけど、私のそんな決心は、ほんの1週間も経たないうちに、崩れることになる。
数日後、組織の中は騒然としていた。
秀一様がFBIの一員だということが、とうとうバレてしまったのだ。
私は直ぐに幹部の人に捕まえられ、自分の部屋とは違う一室に閉じ込められた。
スパイの男が小姓にしていた女。
幹部が私に目を付けるのは、仕方のないことだった。
だけど私は何も言うつもりはなかった。…というより、本当に何も知らないのだ。
よく思い出せば、秀一様は自分の話をしながらも、核心に迫るような話は一切していなかったのだ。流石というべきだろうか。
……ほら、やっぱり貴方は嘘つきだ。
薄暗い一室のベッドに倒れこむ。もう涙は流れなかった。
…待っていろ、って言ったのに。
迎えになんて、来てくれなかったじゃない…。
私は…これからどうなるんだろう?
未来のことなんて、見当もつかなかった。ジン様は正直に話せば命をとるようなことはしないと言った。
だけど…生きながらえたとして。
私は秀一様のいない、この小さな世界で…どうやって生きていくんだろう?
…ああでもきっと。
いつも通り、掃除をして、食事を作って、…そうやって、私の一生は過ぎていくんだろう。
秀一様が来て、私の生活が変わって…。
それが、特別過ぎただけなのだ。それが、いつもの、何の変哲もない日常に、戻るだけ…。
それも素敵なのかもしれない。と、そんなことを思った。
私の部屋の前を、遣いが通り過ぎるのが分かった。ぼそぼそと話し声が聞こえる。
「聞いたァ?瑠璃んところの主人、裏切ったって…」
「聞いた聞いた!結構使える人材だったらしいから、幹部はもう大変みたいで…」
「その小姓ってホントにシロなの?怪しいわねぇ」
「でも確かあの子、随分な古株なのよね…」
「どっちにしろ…可哀想よね。ジン様だって殺さないとか言ってたけど…生きて返すつもりなんてないでしょ」
「あら、知らないの?殺す、って言ってたわよ?なんかァ、前ひとり自殺した子がいたじゃない?あん時から目ェつけられてたらしいのよ」
がしゃん、とグラスが音を立てて割れた。それは別に、事故なんかじゃなかった。私がわざと落とした音だった。
粉々に割れたグラスは、きらきらと僅かな照明を浴びて光っていた。きれい、とそんなことを思った。
死ぬのが怖いとは思わなかった。殺されるんだ。本当に私はただの道具として一生を終えるんだ。
もう…私に、この世界に、意味なんて、無い。
貴方は来ない。私の一方的にした約束は、最後の忠誠心は、宙ぶらりんのまま、ゆらゆらと揺れてしまっている。
あなたは、こない。
割れたグラスの、一際大きな欠片を手に取った。
あなたも…こんな気持ちだったんだね。
今やっと、逝ってしまった彼女の気持ちが分かるような気がした。
このまま、道具として殺されるなんてみじめすぎるもの…。
それなら、自分で、あなたの為に命を落とすほうが、ずっと、ずぅっと、救われる…。
だって、私は…あなたのことが、本当に…。
この身を差し出しても、構わないくらい…愛しているから。愛してしまったから。
だから…あなたのために、命を差し出すんなら、私…
ちっとも悲しくも、苦しくもないんだよ…。
さよなら、秀一様。
小姓の身分でありながら、あなたに恋心など抱いてしまった私を…どうか
『お許しください……』
久しぶりに心から、笑うことができた。
そして私は…輝くガラスの欠片をそっと自分の左手首に突き当てた。
141103
続きます