短編2
□殺し屋と警察官――寝待月
1ページ/1ページ
雨の音が変わった。遠くの方で小さく雷が鳴っている。
車が少しずつ減速してゆく。終わりと始まりの気配。
ねぇ、零。今の、どういう意味?
そう聞いてしまいたいのに、何故かその質問をするのが酷く憚られた。零は真っ直ぐ前を向いて、こちらを見ようともしない。
車が停まる。
「…この辺りでいいですか?」
『ん…、ありがと』
心なしか雨脚が弱まったような気がする。この調子で決行の時間には雨が止んでくれればいいのだけれど。
扉を開けても、零はこちらを見てくれなかった。何か考え事でもしているような真剣な表情で、やはり、じっと前を見つめている。
零の車から降り、予め目を付けていたビルの中に潜り込む。いつものルーティンならば、彼が缶コーヒーを片手に休憩しにくるまではあと30分程度はある。
今さら敢えて準備するようなことも無い。いつもならば、この時間はじっと身を潜めて、ただただ自分の呼吸にだけ集中している時間だ。
なのに、今日は雑念ばかりが頭に働きかける。零の声が繰り返し頭の奥に響く。
殺さなくても、殺すことはできる。
どうしてこの言葉ばかりがやたらと喉に引っかかるのだろう。
別に、分からないならば分からないままにしておけばいいのだ。総てを理解する必要はないし、そんなことは不可能だと思っている、私はそういう人間ではなかったか。
だが、今日の私はその言葉の意味を理解しようと、無意識に頭が働いてしまっている。…いや、もしかしたら。
覗き込んでいた小窓から、ターゲットが出てきたのを確認してハッとした。行かなくちゃ。拳銃がいつもの場所に仕舞われているのを確認し、重い腰を上げる。
ビルを出る。雨は止んだようだ。空を見上げると、薄暗い雲が僅かに霞んでいる程度で雨雲が完全に捌けきった訳ではなさそうである。
暫くすると、また降り出してきそうだな。
それまでにさっさと仕事を終わらさなくちゃ、という思いが溜息と共にせり上がってきてうんざりした。
標的は、自販機とベンチが小さな屋根の下に所狭しと仕舞われている外の休憩所のベンチに座り、ぼおっと呆けているところだった。
まさか、自分の命が狙われているなんて思いもよらない顔で。
いや、それが普通なのだ。自分どころか、人の命が簡単に奪われてしまう世界がこの世に本当に存在するということを、一端の社会人が理解できるわけがない。
今頃彼は、仕事のことでも考えているのだろうか。それとも、家のこと?子どものこと?
それでも、いつもの日常は私の引き金ひとつで、簡単に奪われてしまう。
ベンチに歩みを進める。足が重い。ベンチまでのものの数メートルがやたらと遠く感じる。なのに、そこに辿り着いて欲しくない。遠いのに、足が進まないのに、身体はどんどんそこに近づいている。やたらと喉が渇く。彼はまだ私に気がつかない。
ベンチの真横にまで来たところで、漸く彼は呆けた顔を微かに私に向けた。だが、また宙に視線を戻してしまう。誰か来たな、くらいにしか思っていないのだろう。
拳銃を取り出す。いつも無意識にやってのける作業がたどたどしく、演技をしているようだ。やめて、そのまま、空を見ていて。私を見ないで。私が引き金を引くまでの、ほんのわずかな時間でいい、そのままでいて、こんな私を見ないで。
引き金に掛けた指が硬直したみたいに動かない。引け。引け。引け!!なんとか自分を奮い立たせ、人差し指に力を入れる。
その時、いつまでたっても立ちすくんでいる女をとうとう不審に思ったのか、彼は私の方にゆっくりと目をやった。
彼の目に私が映る。
「ひィッ!!!」
自分に拳銃を向けられている、ということを認識した彼は、ベンチからずり落ち、地面に付いた尻を引きずってがくがくと後退した。
恐らく、逃げたくても腰が抜けて立てないのだろう。私は拳銃を構えたまま、彼を静かに追い詰める。
「だ、誰だっ、な、なんなんだっ、やめろ、やめろっ、やめろぉ!」
やめて。見ないで。そんな目で、そんな、化け物を見るような目で。見ないで。見ないで。見ないで。
撃て!!!!
その時だった。
光源に乏しく、薄暗かった野ざらしの休憩室が、俄かに明るくなったのだ。
ターゲットの恐怖に引きつった顔が、より鮮明に、青白く、映し出されたのを見た。
月が出たのだ。
瑠璃は直感で察した。私の、すぐ後ろ。私の背後に、雲の切れ間から、漸く、大きく黄色の月が、顔を出している、と。
標的から目を離すわけにはいかないから、振り向くことはできない。けれど、感じる。月が出ている。能面のような表情で、光をこうこうと放ちながら。
見られている。
瑠璃は背中に冷たい汗が流れ落ちるのを感じた。
月に見られている。
私が月を見ているのではない。
月が、私たちを見ている。
明らかに隙の出来た私に気がついたのか、彼はなんとか立ち上がり、逃げ出そうとした。私は反射的に拳銃を構えなおす。彼は再び身を固くし、直立する。
世界は、明度を落とし始めた。雲が出てきたのだ。私の背中を刺すような、あの光はまた隠れてしまった。ホッとしたような、緊張から解放されたような心地になり、私は拳銃を緩やかに降ろした。
ターゲットが困惑したような表情を浮かべる。
『……逃げて』
久しぶりに声を出した気がした。からからに渇いて、しぼりだすような声。
『逃げて。それから暫く身を隠して、一度○○と結んでいる契約を全て切って。その間に、他の勢力との結びつきを強くしておいて。分かった?』
彼はますます困惑した顔をした。だが、私の言う意味を飲み下すように理解できたのか、できていないのか、震える声を荒げた。
「おま、お前を向けたのは、○○の奴か?」
『それを言えば』
真っ直ぐに彼の顔を見た。彼はびくっと姿勢を正す。
『私はあなたを殺さなくちゃいけなくなる』
どう足掻いても敵わない、絶対的な力の差があることを本能で察したのだろう。彼は無言で何度も頷くと、脱兎のようにその場から逃げ出した。私は追いかけなかった。辺りは静寂に包まれる。
ぽつ、ぽつ、とまた、雨が降り出したかと思えば、滝のような豪雨が私の身体を突き刺した。
力の抜けた手から、拳銃が滑り落ちる。拾う気にもなれない。雷が鳴る。私はその場から一歩も動かない。
私は泣いていた。
何故かは分からない。雨に紛れて、私の頬はむしろ、涙で濡れていた。何も考えられなかった。涙が出れば出るほど、自分が空っぽになっていくのを感じる。止められない。何故自分が泣いているのか分からない。だけど、次々に涙が溢れてくる。空っぽだ。私は。殺さなかったら、私は――。
「おかえりなさい」
優しい声が、零の声が、頭の上から降ってきた。ずぶ濡れの私の肩に、零がジャケットをかけてくれる。傘をさしてくれた、私と零の上だけ雨が止む。
零が私の肩を抱く。私はなだれ込むように零の胸に縋りつく。涙が止まらない。空っぽの私の中に、零の匂いが入り込み、満たしてゆく。
私は零の胸に顔を埋めながら、狂ったように泣き続けた。
そんな私を零は、優しくも強く、抱きしめていてくれた。
続きます
20200412